親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人降誕会で明かされた「なぜ生きる」

Posted on 30th 5月 2014 by はるき in 未分類

親鸞聖人がお生まれになったのは5月21日です。

その前後、各地で親鸞聖人がお生まれになったことをお祝いし、
親鸞聖人降誕会(ごうたんえ)がつとめられます。

先日、浄土真宗親鸞会で、降誕会が勤修され、
そこで聞かせていただいたことを通して少しお話ししたいと思います。

かつての人気番組で歴史上の人物ベストワンと言われるほどの親鸞聖人。
約800年前に生まれられたことを喜び、
90年のご生涯、何を教えられたのか、
その教えをよく、正確に聞かせていただくご縁が親鸞聖人降誕会です。

親鸞聖人は何を教えられた方なのでしょうか。

「なぜ生きる」、このこと一つ教えられました。
いや、親鸞聖人しかなぜ生きる、を教えられなかった、
ということです。

「なぜ生きる」
こんな毎日の繰り返しに何の意味があるのだろう、
そう思われたことがある人は少なくないのでは
ないでしょうか。

これは実は古今東西の全人類の問題です。

「古今」とは仏教で三世(さんぜ)、ということです。
過去世、現在世、未来世のことで、いつでも、
ということです。

「東西」とは仏教で十方(じっぽう)のことです。
四方、八方とは聞かれたことがあると思いますが、
仏教ではどこでも、ということを十方といわれます。

親鸞聖人が「なぜ生きる」を教えられた、ということは
800年前の人、日本の人だけにおっしゃったのでは
ない、ということです。

親鸞聖人は、アメリカの人にも、中国の人にも、
フランスの人にも、すべての人に、
そして現代の私たちに、そして未来の人たちに
ずぅーっと、
「何のために生きるのですか」と問い続けられている、
ということなのです。

親鸞聖人の教えと関係のない
古今東西の全人類はいない、といえるのでは
ないでしょうか。

親鸞聖人の教えを世界の光と言われる所以を
改めて知らされた思いです。

私たちは生まれてきたということは、
空と水しか見えない海に放り込まれた、ということと
いえないでしょうか。

泳がなければ死んでしまいます。
泳ぐときに問題になるのは二つ考えられます。

どう泳ぐかの泳ぎ方と、もう一つは泳ぐ方角です。
その二つのうち最も大事なのは泳ぐ方角です。

いや、泳ぎ方、どう泳ぐかのほうが大事だよ、
と言われる人はあるでしょうか。
泳いでいたら、やがて力尽きてしまいます。
泳ぐのは大変だからです。
生きることが大変ということと同じです。

あの芥川龍之介は言っています。

「人生は地獄よりも地獄的である」と。

そんな人生に絶望し、三十代半ばで芥川は自殺しています。

お札になった夏目漱石は妻に宛てた手紙で
「人間は生きて苦しむための動物かもしれない」と
言っています。

これらの人は人生の表、裏をすべて知り尽くして
それを表現できる人たちです。

これだけ政治、経済、科学が変わっても、
自殺者は絶えることがありません。

日本だけで毎年三万人近くの人が自ら命を
絶っています。
苦しい人生、なぜ生きるのでしょうか。

先月、韓国のフェリーが転覆したという
大変な事故がありました。

そして悲しいことに高校生が
たくさん亡くなりました。

修学旅行に行く高校生の多くは、
眠れないほどうれしかっただろうと思います。

まさかその日の朝食が最後の食事になろうなんて
夢にも思っていなかったでしょう。

しかし、夢うつつの船旅行から目を
さまさせられます。

事故が起きて、船が傾いていく、
初めは船内放送でじっとしておれ、とのことでしたので、
問題ないと思っていましたが、
いよいよ船が沈んでいく時に、助からないと分かった時に、
船内が一変し、地獄と化したのではないでしょうか。

これは全人類の姿と言ってもいいのではないでしょうか。

こうなることが分かりながら、なおも生きるしかない
人間の姿を地獄的である、と芥川龍之介は言いたかったので
ないでしょうか。

私たちにも、必ず沈没、死という一大事があります。
この一大事を仏教で後生の一大事と言われ、
この一大事の解決こそ、なぜ生きるの答えであると
親鸞聖人は教えられているのです。

続く

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仏教の役割、僧侶の仕事

Posted on 28th 3月 2013 by はるき in 未分類, 親鸞の教え

3月も終わろうとしています。
少しずつ春の気配を感ずる今日この頃です。

親鸞聖人と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。

最近の若い人はそのお名前さえ知らない、という人もあると聞きます。
小、中学校の教科書にそのお名前と主著が出ていたのを思い出します。

高校の現代社会という科目のテストでは
「親鸞聖人が教えられた『悪人正機』とはどんな教えか」
という問題がありました。

答えは残念ながら覚えておりませんが、
歴史上の人物として学校で習われた方は多いのでは、と思います。

親鸞聖人が教えられたことと私と何の関係があるのか。
その親鸞聖人の教えを
そのご一生を歌われた「親鸞聖人のお歌」から学んでおります。

今日は前回の続きです。

尊い方の夢のお告げに順い、
猟師であった日野左衛門は自分の家に親鸞聖人と
そのお弟子を招き入れたのでした。

暖をとられながら、親鸞聖人は仰いました。

親鸞聖人
「突然お邪魔をした見ず知らずの者に、
このようなお心遣い、かたじけのうござる。

日野左衛門殿。こんなことを尋ねては失礼だが、
夕べ、『坊主は大嫌いだ』と言われていたようだが……」

日野左衛門
「いや、つまり……、あれはだな。
葬式や法事で、わけの分からんお経を読んだり、
たまに説教すりゃ、地獄だの極楽だのと、
死んでからのことばっかり言って、金を持っていく。
そんな者おれは大嫌いでなあ……。

だってそうじゃねえか。奴らのやってることは、
墓番と葬式だ。死んだ人間の後始末ばかりだ。
どうして生きてる人間に、どう生きるかを教えねえんだ。
それが坊主の役目だろう。

おれたちゃあ毎日どう生きるかで、
朝から晩まで一生懸命なんだ。

その、どう生きるかを少しも教えねえで、
汗水流して稼いだ物を、持っていきやがる……」

ここで、日野左衛門が坊主、僧侶についての
不満を親鸞聖人にぶつけています。

僧侶の仕事、役割とは何でしょうか。

墓番、葬式しかやらず、死んだ人間の後始末ばかりしている
坊主は論外として、
日野左衛門のように「どう生きるか」を
教えるのが僧侶でしょうか。

僧ということについて、
私たちはどういうイメージを持っているでしょうか。

NHKの『クローズアップ現代』という番組で
次のようなアンケートが紹介されていました。

ある講演で取られたアンケートだそうです。

・仏教に対して良いイメージをもっている人は90%
・寺に対して良いイメージを持っている人は25%ぐらい
・僧侶に至っては良いイメージを持っている人は10%ぐらい

というものでした。

仏教に対しては、
現代の多くの人たちが何か尊い、大事なことが
教えられている、と思っているようです。

しかし、
大多数の人が、寺や僧侶に対しては日野左衛門のように
良いイメージを持ってはいないということが分かります。

それに対して、
親鸞聖人が大変尊敬なされている
聖徳太子は『十七条憲法』に次のように仰っています。

「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり、
すなわち四生の終帰・万国の極宗なり。
何の世・何の人かこの法を貴ばざる。
それ三宝に帰せずしては、何を以てかまがれるを直らせん」
(十七条憲法)

この世に三つの宝がある。
仏宝、法宝、僧宝の三つです。
仏と、仏の説かれた法と、それを正しく伝える僧侶のこと。

親鸞聖人が日本のお釈迦さまだ、と尊敬される
聖徳太子は、僧侶は宝であるから敬いなさい、大切にしなさい、
と教えられているのです。

そんな私たちにとって大切な宝である僧侶に対して、
なぜ、私たちは、良いイメージを持たなくなって
しまったのでしょうか。

引き続き、親鸞会でお聞きしたことを
お話ししたいと思います。

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親鸞聖人が結婚なされた本当の理由

Posted on 24th 12月 2010 by はるき in 未分類

師走も半ばを過ぎ、あっという間に今年も終わろうと
しています。

昨日、読売新聞で読者が選ぶ2010年の日本10大ニュースが
紹介されていました。

今年一番、関心があったニュースの第1位は「尖閣諸島問題」でした。
皆さんの心に残った出来事は何だったでしょうか……。

早速、親鸞聖人のお歌を
一緒に学びたいと思います。

「三十一の御歳(おんとし)に
 師匠のすすめに従われ
 兼実公(かねざねこう)の玉姫(たまひめ)を
 請(う)けて在家の身とぞなる」

親鸞聖人は31才で先生である法然上人の
すすめに従われ、時の関白・九条兼実公の娘、
玉日姫(たまひひめ)と結婚されました。

親鸞聖人は公然と「肉食妻帯」をなされました。

「肉食」とは魚や獣の肉を食べること、
「妻帯」は結婚することです。

 当時、天台宗や真言宗などの聖道門といわれる仏教では、
肉食妻帯は固く禁じられていました。

 厳しい戒律を守って修行に打ち込み、
欲・怒り・愚痴の煩悩と闘って、
さとりを得ようとするのが、
これらの教えだからです。

 僧侶が公然と肉食妻帯することは、
仏教界だけでなく、世間でも大問題でした。

 かくして親鸞聖人には、
「破戒僧」
「堕落坊主」
「仏教を破壊する悪魔」
「仏敵」
「色坊主」
などの、聞くに堪えない悪口雑言が嵐のように浴びせられ、
世間中のあらゆる非難を一身に受けられることとなったのです。

 このような親鸞聖人の言動を見て、
“己に素直に生きられた方”といったイメージを持っている人は
少なくないようです。

しかしこれは、己の欲望のままになされた行動ではありません。

 非難を覚悟の上で、あえて公然と肉食妻帯をなされたのです。

聖人はおっしゃいます。

「僧侶も、在家の人も、男も女も、ありのままで等しく救いたもうのが
阿弥陀如来の本願。その真実の仏教を今こそ明らかにせねばならぬのだ。

阿弥陀如来の広大なご恩徳を思えば、どんな非難も、物の数ではない」と。

私たちのありのままの姿とは、
どんな姿なのでしょうか。

親鸞聖人は私たち人間の本当の姿を明らかにして
くださいました。

親鸞聖人のお歌を通じ、続けてお話ししたいと思います。

つづく

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聖人の苦悩

Posted on 18th 11月 2009 by はるき in 未分類, 親鸞の苦悩

 急に冷え込んできましたね。こんな季節にはあったかーい、鍋料理がいいですね……。

 さっそく前回の続きをお話しします。

 親鸞聖人は9才の時に、死ねばどうなる、の後生暗い心の解決のために比叡山・天台宗の僧侶となられました。

 天台宗は、釈尊の説かれた法華経の教えに従い、戒律を守り、煩悩と闘ってさとりを得ようとする教えです。

 その修行は峻烈を極め、聖人のまさに命を懸けての難行が始まったのです。

 その時のことが「親鸞聖人のお歌」では次のように歌われています。

大曼行(だいまんぎょう)の 難行(なんぎょう)は
事(こと)なく成(な)され 給(たま)いしも
吾等凡夫(われらぼんぶ)の さとりには
叶(かな)わぬものと 百日(ひゃくにち)の

 修行に打ち込まれるほど、逆巻く煩悩が知らされ、苦しまれる聖人。

親鸞聖人「人間は、煩悩に汚れ、悪しか造れない。
     だから後生は地獄と釈尊は仰有る。私の心の中にも、
     欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り、
     ネタミ・ソネミの心がとぐろを巻いている。どうすれば、
     この煩悩の火を消し、後生の一大事を、
     解決することができるのか。どうすれば……!」

 難行苦行に打ち込まれ、叡山の麒麟児と誰もが褒めたたえるほどの聖人でしたが、後生暗い心の解決はならなかったのです。

 そして前回、前々回とお話ししましたように、恋わずらいに悩まれ、平家の落ち武者たちにスッパ抜かれた自らの醜い心にますます苦しまれたのです。

 またその頃、こんなことがありました。

 上辺は取り繕うことができても、心で作る悪だけはどうにもならぬと苦悶され、修行されていた堂を飛び出される。そして庭の木に駆け寄り、頭をガンガンと打ち付けて、そのまま、根元にうずくまってしまわれた。覚明房が帰ってきて、聖人の様子に驚き、駆け寄り尋ねました。

覚明  「親鸞殿、どうなされた?」

親鸞聖人「ああ、覚明殿か。この親鸞ほど、浅ましい者はない」

覚明  「何を言われる。親鸞殿ほど、仏道一筋の方は外にあるでしょうか」

親鸞聖人「覚明殿。それは、形だけのことだ。心は、醜いことばかり思い続けている、
     それが親鸞の実体なのだ」

 横にあった杖を取り、差し出されて、

親鸞聖人「そなたに、頼みがある」

覚明  「私のできることなら、何なりと」

親鸞聖人「この杖で、親鸞の腐った性根を、思い切り叩き直してくれないか」

覚明  「な、何を言われる、親鸞殿」

親鸞聖人「煩悩に汚れ切ったこの親鸞を、打って、打って、打ちのめしてくれ。
     頼む覚明殿。もう親鸞は一歩も進めないのだ」

覚明  「それは、できません」

親鸞聖人「頼む、覚明殿、打ってくれ!」

覚明房、一、二歩下がって、平伏し、

覚明「ひたすら自己に厳しく修行なさる親鸞殿を慕って、お側で修行がしたいと
   参った私に、どうして、親鸞殿を打つことができましょうか。
   それだけは、お許しください」

親鸞聖人「覚明殿……。だめか……」

 煩悩から生まれたこの親鸞に、煩悩から離れることができるのか。天台法華の教えに絶望なされ、聖人はやがて下山の決意をなされるのでした。つづく

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恋わずらいに苦しまれる親鸞聖人2

Posted on 30th 10月 2009 by はるき in 未分類, 親鸞の苦悩

 まもなく11月です。11月と言えば、親鸞聖人の報恩講が行われる時期ですね。
報恩講とは何か、少しお話ししたいと思います。

 親鸞聖人報恩講は浄土真宗で、一年の中でもっとも大きな優れた行事です。

 報恩講とはご恩に報いる集まりのこと。

 ご恩とは、どなたのご恩でしょう?

 それは、親鸞聖人のご恩なんです。

 そう言われてもピンと来ない方は、どんなご恩を親鸞聖人から受けているのかを知れば、なるほど、と納得されると思います。

 親鸞聖人のご恩を知るために、親鸞聖人の教えられたことを、前回の話しを続けて、ともに学ばせていただきたいと思います。

 ひょっとした縁で会われた、不思議な女性への恋心に苦しまれる親鸞聖人。恋わずらいは年ごろの人ならばだれでも経験すると思いますが、親鸞聖人は何を問題にされ、苦しまれたのか、私たち一人一人の心を見つめる機会として考えてみましょう。

 聖人、叡山でのご修行中にこのようなことがありました。
ある石仏の前で合掌される聖人の近くを、一晩遊びあかした朝帰りの僧侶たち三人が通りかかりました。

「あー、楽しかったー」
「たまには息抜きも必要じゃわい」
「おっ、あれは親鸞ではないか」
「ん?ああ、あれが、叡山の麒麟児と言われる親鸞か」

 その声に気づき、聖人は三人に一礼されました。

「のぉ親鸞殿。よう頑張られるが、そなたもたまには、息抜きに行ってこられたらどうじゃ」

親鸞聖人「いいえ、私は……」

「そなただってほんとは女子(おなご)が好きじゃろう」
「そなたみたいないい男、『親鸞さま、親鸞さま』と言って女子のほうで離さんぞ」

親鸞聖人「そ、そんな……」(ポッと、赤面された聖人)

「おお、赤くなった。どうやら図星じゃな。そなた、女子のことばかり考えておるんじゃないか」

「んーそうじゃろうなきっと。どうじゃ?」

 聖人は返答に窮してしまわれる。

 僧侶たちはその横を通り抜け、「叡山の麒麟児も、煩悩には勝てず、か!」と笑いながら、通り過ぎて行ったのです。

親鸞聖人「ああ、何たることだ。オレは、体でこそ抱いてはいないが、心では抱き続けているではないか。あの女性のことばかりが心に浮かぶ。それなのに、オレほど戒律を守っている者はないと自惚れて、彼らを見下している。心の通りにやっている彼らの方が、よほど私より正直者ではなかろうか」

 ここで、仏教では我々の行いに三通りあると教えられることを確認したいと思います。

・身業
・口業
・意業

 この三つを「三業」と仏教で言われます。身業とは身体の行い。口業とは口でしゃべる行いです。意業とは心の行いで、心で思うことを言います。仏教ではこの三つの中で意業がもっとも重いと教えられます。なぜならば、身体や口の行いの元は心であり、心が命ずるままに身体は動くのであり、口はしゃべるからです。心で悪いことを思っているとすれば、身体も口も悪に汚染されるのです。

 親鸞聖人は戒律を守らねばならぬご修行中の身。身体や口、上辺は立派なように取り繕うことはできても、心ではどうか。平然と戒律を破り、人に言えないことばかり思い続けているわが身に聖人は驚かれたのです。親鸞聖人の後生ハッキリしたい、何とか明るくなりたい、の真面目さは聖人の眼を自己の心へと向けさせたのです。

親鸞聖人「彼らは昼間は女性のことを忘れていることもあるだろう。しかし親鸞は押さえよう、思わないようにしようとして押さえられず、無間のどん底から恐ろしい悪性が吹き上がってくる。オレは24時間休む間なしに犯し続けているではないか。そうであれば、心で悪を造り続けている親鸞の方が、平家の落武者よりもお粗末で、罪が重いではないか」

 見ザル、聞かザル、言わザルの三つのサルは制御できても、思わザル、だけはどうしようもなかった。

親鸞聖人「醜い心を抱えながら、上辺だけを取り繕って、仏の眼を欺こうとしているこの親鸞こそ、偽善者ではないか。ああ、この心、一体どうしたらよいのか!」

 力なく、林間を、大乗院に、上ってゆかれる聖人でした。(つづく)

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