親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人と美女との出会い

Posted on 25th 7月 2009 by はるき in 親鸞の生涯, 親鸞の苦悩

26歳の親鸞聖人は、青蓮院(しょうれんいん)を訪ね、慈鎮和尚(じちんかしょう)に求道の煩悶を訴えられました。

「仏門に入って17年。親鸞この間、全身全霊修行に打ち込んでまいりました。だがいまだに後生に明かりがつきません」

慈鎮和尚は一喝した。

「後生の一大事は生涯かけての最大事。
だからこそ、我々の先達は、この一大事の解決に、生涯をささげてきたのではないか。
仏道を求めることは、大宇宙を持ち上げるよりも重いぞ、と龍樹菩薩も言われている。10年や20年で、解決のできることではないのだ」

心得違いを猛省された親鸞聖人は、再び、比叡山への道を引き返されるのであった。

その叡山へ帰られる途中のことでありました。
ふもとの赤山明神で、不思議な女性に親鸞聖人は出会われたのでした。

「親鸞さま、私には大きな悩みがございます。是非、山へお連れください」

「伝教より女人禁制の霊地なれば……」

と断られると、

「伝教ほどのお方、『山川草木悉有仏性』(さんせんそうもくしつうぶっしょう)の『涅槃経』(ねはんぎょう)の御文を知られなかったのですか。
この結界にも、メスの鳥や獣はいるでしょうに。なぜ女人を差別されるのでしょう」

驚きのあまり、声もない親鸞聖人に、

「どうか親鸞さま、山上の水を谷川に流して田地を潤すように、山上の仏教を、万人が救われる本当の仏教にしていただきとうございます。
今はこれ以上申しません。記念にお受け取り下さい」

白絹に包んだ玉を渡した女性は、いずこへか姿を消したのでした。

この出来事は親鸞聖人にいったい何をもたらしたのか。次からも、親鸞会の話を聞いている知人の話をもとに親鸞聖人のお歌と生涯をご紹介していきたいと思います。

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親鸞聖人の壮絶な修行

Posted on 13th 7月 2009 by はるき in 親鸞の生涯, 親鸞の苦悩

親鸞会でお話を聞いたところによると、比叡山には今日でも、千日回峰行なる荒行があるそうです。
開山以来千数百年、この修行を完遂した者はわずかという、命懸けの修行です。

千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)とは、真夜中の2時に起きて、山上山下の行者道30キロを歩き、堂塔伽藍や山王七社、霊石、霊水など350ヵ所で所定の修行をする荒行です。

5年目には9日間、堂にこもって断食、不眠、不臥という「堂入り」があり、疲労も限界にくると、聴覚が異常に研ぎ澄まされ、線香の灰が落ちる音さえ、「ドサッ」と聞こえると言います。さらに801日目から100日間は、「大回り」を行います。これは山を下りて京都の修学院から一乗寺、平安神宮、祇園と一日80ロを17、8時間で回る苦行です。

親鸞聖人は、その回峰行をしのぐ大曼の難行まで成し遂げられましたが、煩悩は減りもしなければ、なくなりもしなかったとおっしゃっています。
「ああ、いかに厳しい行に打ち込んでも、心の中には欲望が渦巻き、怒りの炎が燃え盛り、ねたみ、そねみが、とぐろを巻いている。どうすれば」
苦悶する親鸞聖人でありました。

親鸞聖人は、学問にも没頭されました。
10歳の時から、天台四教儀、三大部などを学習され、12歳から倶舎、唯識、16歳から華厳……。
ですが、片時も親鸞聖人の心から離れないのは生死の一大事。

「学問によって、なるほど文字もわかり、もつれていた疑問も氷解してゆくが、どうしても解けぬのは、生死の大問題。この一大事、いかにすればいいのか……」

親鸞聖人の苦悶はますます深まるばかりでありました。

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親鸞聖人が比叡の山で闘った煩悩とは?

Posted on 1st 7月 2009 by はるき in 親鸞の生涯, 親鸞の苦悩

9歳で出家なされ、比叡山天台宗の僧侶となられた親鸞聖人は、日々、釈尊の説かれた法華経の修行に打ち込まれました。
それは、煩悩との戦いの日々でありました。

今回この煩悩について述べるにあたって、親鸞会で親鸞聖人の教えを学ぶ知人に詳しく聞いてみました。
煩悩とは、私たちを煩わせ悩ませる心のことで、一人に108あると教えられます。
これを108の煩悩と言われます。

中でも恐ろしいのが、三毒の煩悩と言われる、貪欲、瞋恚、愚痴の心です。

貪欲とは、あれが欲しい、これが欲しいという欲の心です。
60数億の人間の中で、欲のない人はありません。

代表的なものを五欲といい、食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。

食欲は、食べたい飲みたいという心です。生きるためには仕方がないと、死にたくないウシやブタ、ニワトリや魚など、目生き物の命をどれだけ日々奪っているでしょう。
一円でも多くのお金が欲しい、物が欲しいという財欲のために、遺産相続で肉親と骨肉相はむ争いを始めます。
男は女を、女は男を、常に異性の関心を得ようと身を焦がし、寸時も安らかでないのが色欲です。三角関係のトラブルは、古今を通して、絶えたことがありません。
有名になりたい、褒められたい、認められたいと焦っているのが名誉欲。出世したい、一番になりたいと、競争社会では地位や名誉を得るために、人々は他人を欺き、蹴落としても平気です。
睡眠欲は、朝晩はもちろん、暇があったら一分一秒でも長く寝ていたい、楽がしたいと思う心です。

底無しの欲望は、どこまでいっても満たされることはなく、その欲のために、どれだけ恐ろしいことを思い続けているかしれません。

瞋恚とは、欲の心が妨げられると出てくる、怒りの心です。
怒という字は、心の上に奴と書きます。あいつが邪魔するからだ。こいつさえいなければと、心の中で殺しているのが怒りであり、激しいことは炎のようです。
人前で侮辱されたらどうでしょう。
「あいつのせいで、恥かかされた」
と一生忘れられません。逆上して、衝動のままに親でも子供でも恩人でも切り刻み、八つ裂きにします。毎日のワイドショーでは、そんな事例に事欠きません。

愚痴とは、恨んだり、ねたんだりする心です。他人の幸せは苦々しく、他人の不幸がおもしろい心です。
にわか雨に遭って狼狽している人を見て、喜ぶ心はないでしょうか。犬にほえられ、困惑している人を見て、笑ってはいないでしょうか。艶々たる美人が泥道で足を滑らせ、衣装を汚し、醜態を演じているのを見て楽しんではいないでしょうか。
「お気の毒に」と口では言いながら、ひそかにほくそえむ心があることに慄然とします。醜い心がとぐろを巻いています。このような心で悪を造り、苦しんでいるのが私たちです。

親鸞聖人は、ブッダの教えにしたがい、これら煩悩と戦い、悟りを得ようと厳しい修行に励まれたのです。

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比叡山で修行に励む親鸞聖人

Posted on 20th 6月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯, 親鸞の苦悩

大曼行(だいまんぎょう)の 難行(なんぎょう)は
事(こと)なく成(な)され 給(たま)いしも
吾等凡夫(われらぼんぶ)の さとりには
叶(かな)わぬものと 百日(ひゃくにち)の

六角堂(ろっかくどう)の 観音(かんのん)へ
深夜(しんや)の祈願(きがん) 遂(と)げたまい
四句(しく)の御告(みつげ)と 吉水(よしみず)の
法然房(ほうねんぼう)を 示(しめ)さるる

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.69~70参照)

大意
大曼行の難行も、親鸞聖人は完全に遂行なされたが、とても我々凡夫の助かる道ではないと、救いを求めて、六角堂の観音へ100日間、深夜の祈願を決行された。
救世観音は、四句の夢告と、京都・吉水の法然上人を示されたのであった。

浄土真宗のお経と言えば、大無量寿経、阿弥陀経、観無量寿経の浄土三部経ですが、天台宗は、お釈迦様の説かれた『法華経』の教えに従い、戒律を守り、煩悩と戦って悟りを得ようとする教えです。その修行は、峻烈を極め、まさに命懸けの難行でありました。

仏教の目的は、仏のさとりを得ることですが、天台宗では、
「私たちの本性は、清らかな仏性である。それが煩悩のさびによって曇っているから、修行によってそのさびを落とし、仏性を磨き出すことに全力を挙げよ」
と教えられます。

例えるなら、私たちは心の中にダイヤモンドのような素晴らしいものを持っている。それが煩悩というゴミやホコリがついて見えなくなっており、それで輝いていないのだ。
その煩悩の汚れやさびを、修行により磨いていけば、ピカピカに輝きわたる時が来る、という考えです。
磨く方法こそ異なれ、いずれの宗派も根底はこれしかありません。

煩悩とは、「煩い、悩む」と書くように、私たちを日夜、煩わせ悩ませるもので、全部で108あると教えられます。
大晦日に108回突く除夜の鐘も、ここからきています。
来年こそは、煩悩に煩わされないように、との願いが込められているのでしょう。

108の煩悩の中でも、特に恐ろしいものが3つあり、「三毒の煩悩」といわれます。
三毒とは、貪欲(とんよく:欲の心)、瞋恚(しんい:怒りの心)、愚痴(ぐち:ウラミ、ネタミの心)の3つです。

親鸞聖人の、比叡の山での日々は、まさしくこの煩悩との壮絶な格闘であったのです。

三毒の煩悩とは何かについては、次回にしたいと思います。

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親鸞聖人の見られた磯長の夢告の意味

Posted on 14th 6月 2009 by はるき in 親鸞の生涯

19歳の親鸞聖人が、磯長(しなが)の夢告で最も深刻に受け止められたところは、何と言っても、
「おまえの命は、あと十年余りしかないだろう」
という予告であったことは、想像に難くありません。

「その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入っていくであろう」
の夢告の意味も時の親鸞聖人にとっては、不可解な予告であったに違いありません。

「だからおまえは、今こそ本当の菩薩を心から信じなさい。深く信じなさい」
と言われても、本当の菩薩とはだれなのか、どこにましますのか、親鸞聖人のなぞは深まる一方だったと思われます。

しかし、これらの夢告のなぞが一度に解ける時がやってくるのです。

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた時に一度死んだ、とおっしゃっておられます。
同時に無碍(むげ)の光明界にとび出させていただいた、ともおっしゃっておられます。

『愚禿鈔』(ぐとくしょう)の、

「本願を信受するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり。即得往生(そくとくおうじょう)は、後念即生(ごねんそくしょう)なり」

とは、この信心決定(しんじんけつじょう)の体験を述べられたものです。

それが親鸞聖人29歳の体験でありましたから、まさに磯長の夢告から10年余りの出来事であったのです。
「10年余りで死ぬ」
と言われたのは、迷いの心のことであったのです。

そして、
「速やかに浄らかなところへ入っていく」
と言われたのは、一念で絶対の幸福に救い摂られるであろうことを、予告なされたものでありました。

しかも、その阿弥陀仏の救いを親鸞聖人に説き切ってくだされた本当の菩薩(真の菩薩)は、法然上人であったことも、同時に明らかに知らされたことでありましょう

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親鸞聖人と磯長の夢告

Posted on 7th 6月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

話が前後しますが、今回は磯長の夢告についてお話したいと思います。

親鸞聖人が19歳の御時でした。
求道に行き詰まられた親鸞聖人は、かねて崇敬なされていた聖徳太子のご廟へ行かれ、生死の一大事の救われる道を尋ねられたことがありました。
この時は13日より15日までの3日間こもられたのですが、その間の模様を親鸞聖人自ら次のように書き残しておられます。

夢に如意輪観音が現れて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告したという、かつて母から聞かされていた話を私は思い出し、観音の垂述である聖徳太子のお導きによって、この魂の解決を求めて太子ゆかりの磯長のご廟へ参詣した。

三日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、ついに失神してしまった。
その第二夜の十四日、四更(午前二時)ごろ、夢のように幻のように自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中は明々と光明に輝いて、驚いた。

その時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉を、次のように記されています。

「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。
諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。
汝が命根は、まさに十余歳なるべし。
命終りて速やかに清浄土に入らん。
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
時に、建久二年九月十五日、午時初刻、前の夜(14日)の告令を記し終わった。仏弟子 範宴」

範宴(はんねん)とは若き日の親鸞聖人のことです。
この時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉の意味は、

「わが弥陀と観音、勢至の三尊は、この塵のような悪世を救わんと全力を尽くしておられる。
日本国は真実の仏法の栄えるにふさわしい土地である。よく聴け、よく聴け、耳を澄まして私の教えを。
おまえの命は、あと十年余りしかないだろう。
その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入っていくであろう。
だからおまえは、今こそ本当の菩薩を深く信じなさい。心から信じなさい」

ということでありました。

聖徳太子のご廟は、大阪府石川郡東条磯長(現・太子町)にありますので、これを磯長の夢告といわれています。
このときの親鸞聖人には、夢告が何を意味するのか、まったくわからなかったのですが、これが後に知らされようとは、知る由もない親鸞聖人でありました。

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親鸞聖人9歳で出家

祖師聖人(そししょうにん)は 九歳(くさい)にて
慈鎮和尚(じちんかしょう)の 門(もん)にいり
出家得度(しゅっけとくど) ましまして
比叡(ひえい)の山(やま)の 二十年(にじゅうねん)

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68~69参照)

大意
親鸞聖人は、9歳で出家され、慈鎮和尚の門に入られました。比叡山で20年間、天台宗の修行に打ち込まれたのです。

前回も紹介しましたが、親鸞聖人は、承安3年(1173年)、京都日野の里に、父君、藤原有範卿、母君、吉光御前のもと、お生まれになりました。
親鸞聖人のご幼名を松若丸と言われました。

親鸞聖人が4歳のとき、父君、有範卿が亡くなり、以後、杖とも柱ともたのみとしておられた母君もまた8歳のときに亡くなられたのです。あわれ、頼りなき孤独の身となられた親鸞聖人は、しみじみと人の世の無常を感じられたのでありました。

時は平安末期、諸国に源氏が兵を挙げ、近くは木曽義仲が大軍を率いて都へ攻め上るなどと、情報が飛び交っていました。
栄耀栄華を誇った平家一門も、平清盛が急逝した後、没落の一途をたどります。
養和元年(1181年)、9歳の春、親鸞聖人は決然と出家得度(しゅっけとくど)の意を固められ、伯父君、範網(のりつな)卿に手をひかれ、東山の青蓮院を訪ねられました。青蓮院は叡山62代の座主、親鸞聖人の遠縁にあたる慈鎮和尚(じちんかしょう)の寺です。

親鸞聖人の姿を拝見した慈鎮和尚は、さてもこの児には非凡の相が備わっているぞと、満面笑みをふくまれて、
「わずか、9歳で出家を志すとは尊いことじゃ。だが、今日は日も暮れかけた。明日、得度の式をあげよう」
と言う。付き添いの範綱卿に、異存のあるはずがありません。

ところが、親鸞聖人すっと立ちあがり、筆と筆を執られ、一首の歌をサラサラと書き付けられました。

明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
夜半に嵐の 吹かぬものかわ

生死無常は娑婆のありさま、有為転変は浮世の習い、今を盛りと咲く花も、夜半の嵐で散ってしまう。人の命は桜の花よりもはかなきもの。明日と言わず、どうか今日、得度の式を挙げて頂きたい、との心を詠まれた親鸞聖人のお歌です。

「そこまで、そなたは無常を感じておられるのか」
慈鎮和尚は、大いに感嘆し、早速、得度の儀式をとり行ったと言います。
かくて、その夜のうちに黒髪を剃り落とし、得度の式を終えたのでした。

親鸞聖人は、麻の法衣に麻の袈裟、お名前も範宴(はんねん)と改められ(親鸞というお名前は、35歳の流罪以後)、比叡山に入り天台宗の僧侶となられたのでした。

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親鸞聖人のご苦労を偲ぶ

Posted on 11th 5月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

おそれおおくも いまここに
見真大師(けんしんだいし)が 真宗(しんしゅう)を
開(ひら)きたまいし 御苦労(ごくろう)を
のべて御恩(ごおん)を よろこばん

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68参照)

大意
まことにおそれおおいことながら、親鸞聖人が浄土真宗を開かれました九十年のご苦労を歌にしたため、ご恩徳を喜ばせて頂きましょう。
※見真大師とは、親鸞聖人のことです。

「『燕雀(えんじゃく)、安(いずく)んぞ大鵬(たいほう)の志を知らんや』『猫は虎の心を知らず』。親鸞さまの大御心(おおみこころ)など分かろうはずのない私が、聖人のご一生をあれこれ歌に表すのは、あまりにも危険の多いこと。しかし、書かずにはおれないのです。恐れの多いことは百も承知の上で、若輩ながらここに記させていただきます」
作者のやむにやまれぬ述懐が冒頭の言葉から伝わってきます。

親鸞聖人がお生まれになられたのは、承安3年(1173年)、平安時代後期に入ってのことでした。
その頃の日本は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)で武力が台頭するようになり、京都の町は焼かれ、混乱を極めていました。
その真っ只中に、親鸞聖人は生を受けられたのです。

親鸞聖人がお生まれになったのは、京都・日野の里。
父君は藤原有範(ふじわらありのり)卿。母君は吉光御前(きっこうごぜん)といわれます。親鸞聖人のご幼名は、松若丸(まつわかまる)といいました。
親鸞聖人が4歳のとき、父君・藤原有範卿が亡くなり、親鸞聖人が8歳になられた時に、母君も亡くなられました。

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