親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人の新たな戦い

Posted on 5th 7月 2012 by はるき in 親鸞の御歌解説

あっという間に7月です。1年の折り返し地点を過ぎました。

早速、親鸞聖人のお歌を
学びたいと思います。

お歌の初めはこのように歌われています。

――――――――――――――――――

おそれおおくも いまここに
見真大師が 真宗を
開きたまいし 御苦労を
のべて御恩を よろこばん

――――――――――――――――――

『燕雀、安んぞ大鵬の志を知らんや』で、
聖人のご生涯を記すなどおそれ多いのは百も承知だが、
それでも書かずにはおれないのです、ということです。

燕雀とは
燕(つばめ)や雀(すずめ)などの小さな鳥のこと。

大鵬とは
ひとっ飛びに9万里ものぼるといわれる想像上の大鳥のこと。

「親鸞様の大御心など分かろうはずのない私が、
聖人のご一生をあれこれ歌に表すのは、
あまりにも危険の多いこと。

しかし、書かずにおれないのです。
恐れの多いことは承知の上で、
若輩ながらここに記させていただきます」

 作者、宝尋のやむにやまれぬ述懐で
始められているお歌なのです。

今日は次のフレーズからです。

――――――――――――――――――

無常の風は惨ましく
恩師の死去は聖人の
衣の袖に便り来て
こころを傷め きずつきぬ

悲しきかなや 愚禿鸞
きびすを返し 常陸へと
すすまぬ御足 運ばれて
稲田の草庵の 仮住居

――――――――――――――――――

無常の風は何人にも容赦がありません。
親鸞聖人は京都への旅の途中で、
法然上人ご逝去の悲報を聞かれたのです。

その知らせに愕然と膝を折り、
泣き崩れられた親鸞聖人。
悲嘆の涙に衣の袖を濡らされたのでした。

衝撃のあまり、聖人は、路傍に血を吐かれた、
とまで伝えられています。

親鸞聖人「都行きは……、やめる」

お弟子「え?京へは、帰られないのですか」

親鸞聖人
「法然上人のおられぬ京に、もはや未練はない」

(くるりと向きを変えられて)

「東国へ行く!関東で、阿弥陀如来の本願を、力一杯、
 お伝えしようではないか」

「十方衆生と誓われている、弥陀の本願。
 関東の人々にも、伝えきらねばならない!」

 親鸞聖人は方向を転換され、関東へ向かわれた。
常陸の国(茨城県)の稲田という在所に草庵を造り、
仮の住居とされたのです。

親鸞聖人の、真実開顕の新たな戦いが、
始ろうとしていた……。

(つづく)

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親鸞聖人の、恩師法然上人への思い

Posted on 22nd 5月 2012 by はるき in 親鸞の御歌解説

新緑まぶしい季節となりました。
肌寒くなったり、暑くなったりと気温の変化はまだ激しいようです。

続けて、親鸞聖人のお歌を学んでいきたいと思います。

建暦二年 免されて
配所の五年 夢の跡
名残惜しまれ 昨日今日
帰洛の旅の 身の軽さ

建暦二年、親鸞聖人は無法な束縛から解放され、
自由な身となられました。

過ぎてみれば、配所(流刑の地)での苦しかった5年の生活も、
夢のようなものでした。

いざ、去るとなると、越後の地への名残は尽きません。

しかし、京都には法然上人が戻っておられます。

一日も早くお会いしたく、
再会できる喜びから、
旅は、身も軽く、足どりも速かったのです。

親鸞聖人が流刑の判決を受けられ、法然上人と別れられた時は
もう二度と、法然上人には、お会いできないと
思っておられたに違いありません。

その時に親鸞聖人が法然上人に仰ったことは
今も胸に迫ります。

親鸞聖人
「お師匠さまは南国土佐へ……。
 遠く別れて西東。生きて再び、
 お会いすることができましょうか。

 覚悟していたことではございますが、
 あまりにも、あまりにも、早すぎます。

 お師匠さまぁー!」

親鸞聖人はご和讃に

  曠劫多生のあいだにも
  出離の強縁知らざりき
  本師源空いまさずは
  このたび空しく過ぎなまし  (『高僧和讃』)

幾億兆年のあいだにも、知り得なかった弥陀の本願。
お師匠さま、法然上人がおられなければ、親鸞、二度とないチャンスを
失い、永遠に苦しんでいたにちがいない。
危ないところを法然上人に救われた、

とまで仰っています。

有名な歎異抄には

「たとい法然聖人にすかされまいらせて、
 念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」

と言われています。

たとえ法然上人に騙されて、念仏して地獄に堕ちても、
親鸞なんの後悔もないのだ、との仰せです。

あの人ならば、騙されて地獄に堕ちても後悔しない。
そんな人が私にあるだろうか……。

親鸞聖人の法然上人に対する敬慕の念、
尊敬の情は想像も及びません。

昔、関東の同行が親鸞聖人一人を命として
京都へ命がけの旅をしたことが
歎異抄に書かれています。

後生の一大事の解決こそが人生の目的であると知らされた
関東の同行にとって、
頼れる方は親鸞聖人、ただお一人でした。

命とできる人が、一人でもあれば
それは大変な幸せなことだと思います。

教えを説いてくだされる先生、善知識への思いを、
親鸞聖人や歎異抄のお言葉を通して知らされ、反省させられます。

その親鸞聖人が帰京の途中で
法然上人逝去の知らせを聞かれたのでありました……。

つづく

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親鸞聖人はなぜ、非僧非俗と言われたのか

Posted on 8th 11月 2011 by はるき in 親鸞の御歌解説

11月に入り、紅葉がきれいになってきました。
月日が経つのは、はやいもの。

年賀状発売、年末商戦、せわしくて、
落ち着くヒマもないですね。

親鸞聖人のお歌を、心静かに我が身を
振り返るご縁にしたいと思います。

罪名藤井の善信と
仮名を立てて 聖人は
西仏蓮位を召し連れて
越路を指して 旅立ちぬ

35歳で時の権力者の迫害を受け、
流罪の身となられた親鸞聖人は、
藤井善信と名を変えられ、
西仏房と蓮位房の二人を召し連れて、
雪深い越後へと、旅立ってゆかれたのです。

権力者の無法な弾圧に、馬ふれれば馬を斬り、
人ふれれば人を斬る、
獅子奮迅の親鸞聖人の怒りはすさまじいものでした。

親鸞聖人の主著、
教行信証には激しい権力者批判が記されています。

「主上、臣下、法に背き義に違し忿を成し、怨を結ぶ。
これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、
併に門徒数輩、罪科を考えず、猥しく死罪に坐す。
或は僧の儀を改め姓名を賜うて遠流に処す。
予は其の一なり。
爾れば、すでに僧に非ず俗に非ず、
是の故に禿の字を以て姓と為す。」

天皇も臣下もまことの大法に背き、正義に違い、
みだりに無法の忿を起こし、怨を結び、
遂に浄土真宗を興隆して下された法然上人を
始め門下の秀俊な人々に対して
罪科の如何を考えもせず、
ほしいままに死罪を行い、
又は僧侶の資格を剥奪して遠国に流したのだ。
迫害するのは権力の本性とはいいながら、
何という違法であろうか。

愚禿親鸞もその流刑に遭った一人である。
されば、かような擯罰を受けた上は、
もう僧でもなければ俗でもないから
破戒僧の異名といわれる
禿の字をもって自分の姓とした

親鸞聖人はここで、「非僧非俗」と
宣言されています。

非僧非俗、とは僧侶に非ず、
俗人に非ず、ということです。

僧侶に非ず、ということは、
権力によって承認されて葬式や法事を
専門にする僧侶ではない、ということです。

俗人に非ずとは、生活のために
職業をもっている在家の立場でもない、
との意味です。

えっ、親鸞聖人は僧侶でないの?
俗人でもないって、どういうこと?
と思われる方も多いと思います。

先月、朝日新聞の全面広告で
紹介されていた『親鸞聖人の花びら 桜の巻』という本に

「親鸞聖人はなぜ、非僧非俗と言われたのか」との
問いに対する答えが載っていました。
その一部を引用します。

――――――――――――――――――――――

 全生命を、真実の開顕のみに生涯を托された聖人の歩みには、僧籍もなし、寺院にも住まわれず、葬式、法事、墓番など、おおよそ、僧らしきことは何ひとつなされなかったので、僧に非ずと言われたのです。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
 聖人の日々は、ただ、弥陀の本願を正確に迅速に、一人でも多くにお届けする、献身的布教と著作活動のみに費やされ、世俗の職業につく暇がなかったので、俗にも非ずと言われたのでありましょう。
 まさに、非僧非俗で一生貫かれたのが親鸞聖人でありました。

――――――――――――――――――――――

親鸞聖人が尊敬されていた聖徳太子の
お言葉を思い出します。

『篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり』
(十七条憲法)

ここで言われる「僧」とは正しい仏法を
伝える本当の僧で、
まさに親鸞聖人のような方を言われるに違いありません。

「非僧非俗」の宣言から伝わる
親鸞聖人のお気持ちに、
私たち親鸞学徒は奮起せずにはいられないのです。

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親鸞聖人と法然上人の悲しい別れ

Posted on 17th 9月 2011 by はるき in 親鸞の御歌解説

9月も中頃となりましたが、
夏が舞い戻ってきたかのような
厳しい残暑が続いています。

親鸞聖人のお歌を続けて
学んでいきたいと思います。

「関白殿のはからいに
 遂に流罪と相定まり
 両聖人はあわれにも
 西と東にわかれけり」

権力者の弾圧は、法然上人、親鸞聖人にも
及びました。

親鸞聖人は、最初、死刑を宣告されましたが、
関白・九条兼実公の尽力によって、越後(新潟県)へ
流刑、となりました。

法然上人は、土佐(高知県)へ流罪となりました。
両聖人はあわれにも、西と東に、別れねばならなくなった
のです。

夜の吉水、法然上人のお部屋で、
号泣して別離を悲しまれる聖人の
お姿が……。

親鸞聖人
「お師匠さま。お師匠さま……。
 短い間ではございましたが、
 親鸞、多生の間にも、
 遇えぬ尊いご縁を頂きました。
 ありがとうございました……」

親鸞聖人は、肩を震わせ、額を畳に擦り付けて
泣き悲しまれます。

法然上人
「親鸞よ。そなたは越後か……。
 いずこに行こうと、ご縁のある方々に、
 弥陀の本願をお伝えしようぞ……。
 では達者でな……」

親鸞聖人はお師匠さま、法然上人をどれほど
尊敬されていたか。法然上人へのお気持ちを
次のように仰っています。

昿劫多生のあいだにも
出離の強縁知らざりき
本師源空いまさずは
このたび空しく過ぎなまし
(高僧和讃)

「苦しみの根元も、
 それを破る弥陀の誓願のあることも、
 果てしない遠い過去から知らなんだ。

 もし真の仏教の師に会えなかったら、
 人生の目的も、果たす道も知らぬまま、
 二度とないチャンスを失い、
 永遠に苦しんでいたにちがいない。

 親鸞、危ないところを法然(源空)上人に救われた」

続いて、歎異抄には

たとい法然聖人にすかされまいらせて、
念仏して地獄に堕ちたりとも、
さらに後悔すべからず候。
(歎異抄)

「たとえ法然上人に騙されて、
 念仏して地獄に堕ちても、
 親鸞なんの後悔もないのだ」

法然上人になら、だまされて地獄に堕ちても満足だ、
とまで仰っておられます。

私たちたちは、だまさないからその人を
信ずるのであって、
だます人を信じることはできません。

常識では考えられない信じ方であり、
親鸞聖人のこの御心は
弥陀に救われねば、
うかがい知れないと拝察します。

そんな法然上人との別れは、
親鸞聖人にとって、悲嘆の極みであったに違いありません。

親鸞聖人
「はい、お師匠さま……。
 お師匠さまは南国・土佐へ……。
 遠く離れて西・東。
 生きて再びお会いすることができましょうか。
 覚悟していたことではございますが、
 あまりにも……、あまりにも、
 早すぎます……。
 お師匠さまあー!!」

もっと法然上人から弥陀の本願をお聞きしたい、
もっともっと、おそばで教えていただきたい……。

その親鸞聖人の切なる願いがかなうことは
二度とありませんでした……。

つづく

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親鸞聖人は権力者の弾圧にも屈されず真実を伝え抜かれた

Posted on 22nd 6月 2011 by はるき in 親鸞の御歌解説

今日は夏至。
全国的に真夏日が続いていますが、
体調管理にはより気をつけたいと思います。

早速、親鸞聖人のお歌を続けます。

「かの吉水の一流は
 時機相応の法なれば
 そねみのあらし ふきおこり
 35歳のおん時に」

「吉水の一流」とは阿弥陀仏の本願のこと。

「かの吉水の一流は」とは、
かの京都・吉水の法然上人の説かれた阿弥陀仏の本願の教えは、ということです。

「時機相応の法」とは、老人も若い人も善人も悪人もすべての人の救われる教え、ということです。

そのような教えを法然上人が説かれていたので、吉水の草庵にはいろいろな階層の人が参詣しました。

庶民や武士に加え、聖道諸宗(天台や真言、禅宗など)の学者や公家・貴族まで、法然上人の信奉者が急増しました。

親鸞聖人のように法然上人のお弟子となった人は380余人あったと言われています。

そんな吉水の繁盛ぶりをだまった見過ごすことができない者があったのです。
いつの時代もまさるをねたむ人の心は変わらぬもの。

急速な浄土宗の発展に恐れをなし、聖道諸宗は強い危機感を抱きました。
彼らを支えた公家・貴族までもが、法然上人の支持に回るのは到底、黙視できなかったからです。

続いて、こう歌われています。

「南北僧の 讒奏に
 評議は不利に おちいりて
 住蓮安楽 両人は
 第一死刑を おこなわる」

「南北僧」とは南都・北嶺の僧侶ということ。
奈良や比叡の聖道諸宗の者たちが権力者にありもしないことを、浄土宗をおとしめる目的で、訴えました。

その評議が続いている最中に、法然上人のお弟子、住蓮房、安楽房の二人にあらぬ嫌疑がかけられたのです。
宮中の女御をかどわかした、というのです。

評議は、たちまち不利となり、浄土宗へ、無法な弾圧が加えられました。

承元元年(1207)、ついに、浄土宗は解散、念仏布教は禁止、法然・親鸞両聖人以下8人が流刑。
住蓮・安楽ら4人の弟子は死刑に処せられました。

聖道諸宗と権力者の結託で、日本仏教史上かつてない弾圧でした。
世に「承元の法難」といわれ、『歎異抄』末尾にも記されています。

「五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそいて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり」
      (親鸞聖人・正像末和讃)

私たちを本当に救いたもう御仏は本師本仏の阿弥陀仏だけである、という「一向専念無量寿仏」を強調する人ほど、激しい疑謗破滅がやってくる、と親鸞聖人は仰っています。

この大法難は
親鸞聖人の時代だけのことではないのです。

弥陀の本願を聞信し、お伝えする
平成の親鸞学徒も、その覚悟が問われている、と拝さずにおれません。

(つづく)

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比叡山で修行に励む親鸞聖人

Posted on 20th 6月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯, 親鸞の苦悩

大曼行(だいまんぎょう)の 難行(なんぎょう)は
事(こと)なく成(な)され 給(たま)いしも
吾等凡夫(われらぼんぶ)の さとりには
叶(かな)わぬものと 百日(ひゃくにち)の

六角堂(ろっかくどう)の 観音(かんのん)へ
深夜(しんや)の祈願(きがん) 遂(と)げたまい
四句(しく)の御告(みつげ)と 吉水(よしみず)の
法然房(ほうねんぼう)を 示(しめ)さるる

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.69~70参照)

大意
大曼行の難行も、親鸞聖人は完全に遂行なされたが、とても我々凡夫の助かる道ではないと、救いを求めて、六角堂の観音へ100日間、深夜の祈願を決行された。
救世観音は、四句の夢告と、京都・吉水の法然上人を示されたのであった。

浄土真宗のお経と言えば、大無量寿経、阿弥陀経、観無量寿経の浄土三部経ですが、天台宗は、お釈迦様の説かれた『法華経』の教えに従い、戒律を守り、煩悩と戦って悟りを得ようとする教えです。その修行は、峻烈を極め、まさに命懸けの難行でありました。

仏教の目的は、仏のさとりを得ることですが、天台宗では、
「私たちの本性は、清らかな仏性である。それが煩悩のさびによって曇っているから、修行によってそのさびを落とし、仏性を磨き出すことに全力を挙げよ」
と教えられます。

例えるなら、私たちは心の中にダイヤモンドのような素晴らしいものを持っている。それが煩悩というゴミやホコリがついて見えなくなっており、それで輝いていないのだ。
その煩悩の汚れやさびを、修行により磨いていけば、ピカピカに輝きわたる時が来る、という考えです。
磨く方法こそ異なれ、いずれの宗派も根底はこれしかありません。

煩悩とは、「煩い、悩む」と書くように、私たちを日夜、煩わせ悩ませるもので、全部で108あると教えられます。
大晦日に108回突く除夜の鐘も、ここからきています。
来年こそは、煩悩に煩わされないように、との願いが込められているのでしょう。

108の煩悩の中でも、特に恐ろしいものが3つあり、「三毒の煩悩」といわれます。
三毒とは、貪欲(とんよく:欲の心)、瞋恚(しんい:怒りの心)、愚痴(ぐち:ウラミ、ネタミの心)の3つです。

親鸞聖人の、比叡の山での日々は、まさしくこの煩悩との壮絶な格闘であったのです。

三毒の煩悩とは何かについては、次回にしたいと思います。

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親鸞聖人と磯長の夢告

Posted on 7th 6月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

話が前後しますが、今回は磯長の夢告についてお話したいと思います。

親鸞聖人が19歳の御時でした。
求道に行き詰まられた親鸞聖人は、かねて崇敬なされていた聖徳太子のご廟へ行かれ、生死の一大事の救われる道を尋ねられたことがありました。
この時は13日より15日までの3日間こもられたのですが、その間の模様を親鸞聖人自ら次のように書き残しておられます。

夢に如意輪観音が現れて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告したという、かつて母から聞かされていた話を私は思い出し、観音の垂述である聖徳太子のお導きによって、この魂の解決を求めて太子ゆかりの磯長のご廟へ参詣した。

三日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、ついに失神してしまった。
その第二夜の十四日、四更(午前二時)ごろ、夢のように幻のように自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中は明々と光明に輝いて、驚いた。

その時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉を、次のように記されています。

「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。
諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。
汝が命根は、まさに十余歳なるべし。
命終りて速やかに清浄土に入らん。
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
時に、建久二年九月十五日、午時初刻、前の夜(14日)の告令を記し終わった。仏弟子 範宴」

範宴(はんねん)とは若き日の親鸞聖人のことです。
この時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉の意味は、

「わが弥陀と観音、勢至の三尊は、この塵のような悪世を救わんと全力を尽くしておられる。
日本国は真実の仏法の栄えるにふさわしい土地である。よく聴け、よく聴け、耳を澄まして私の教えを。
おまえの命は、あと十年余りしかないだろう。
その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入っていくであろう。
だからおまえは、今こそ本当の菩薩を深く信じなさい。心から信じなさい」

ということでありました。

聖徳太子のご廟は、大阪府石川郡東条磯長(現・太子町)にありますので、これを磯長の夢告といわれています。
このときの親鸞聖人には、夢告が何を意味するのか、まったくわからなかったのですが、これが後に知らされようとは、知る由もない親鸞聖人でありました。

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親鸞聖人出家の動機

Posted on 27th 5月 2009 by はるき in 親鸞の仏門への思い, 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説

親鸞聖人が9歳で、仏門に入られたことを知る人は多いですが、その目的を誤解されている方も少なくないようです。
この親鸞聖人のご出家について、「乱世を生き抜く生活のためであった」と思われている節もありますが、それは大変な誤解です。

確かに、当時、武士が政権を握り、乱世にあって貴族たちはその力を失いつつありました。
平安も中期になると、貴族の次男三男など家を継げない者は、世の中を渡るため、また出世の手段の一つとして位の高い寺院に出家をし、朝廷もまたこれを取り立て、僧としての高い位を与えるということが、一般化していたようです。

そのため、ご両親を亡くされた親鸞聖人が、9歳で出家されたのも、処世のためと思うのも無理からぬことですが、それはまったくの誤解なのです。

幼くしてご両親を亡くされた親鸞聖人は、無常を縁とされ、

「次に死ぬのは自分の番だ。死ねばどうなるのだろうか」

と真っ暗な、わが身の後生に驚かれました。

親鸞聖人が出家に際し、慈鎮和尚に手渡した一首の歌は、親鸞聖人の出家の決意を表わしたものと言えるでしょう。

「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の
吹かぬものかは」

「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」

一日生きたということは、間違いなく一日死に近づいたということです。
それは、止めることも、後戻りもできません。

時計の針は、残された時を刻み、人は死への階を滑り落ちていきます。
こうしている間にも、一息切れれば、永久に戻らぬ後生です。

後生は、万人の100パーセント確実な未来。
しかし「今、死んだら」と、真剣に問い詰めると、お先真っ暗な気持ちになるのではないでしょうか。

幼き親鸞聖人が驚かれたのは、このことでした。

「人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」

刻々と迫る無常に驚き、「今、死んだら」と思うと真っ暗になる心の解決一つを求め、仏門に入られた親鸞聖人が、先の歌からも彷彿とします。

親鸞聖人の出家は、この後生暗い心の解決を求めるほかに、目的はありませんでした。
同時にそれは、すべての人が仏法を求める唯一の目的でもあるということを、知っていただきたいと思います。

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親鸞聖人9歳で出家

祖師聖人(そししょうにん)は 九歳(くさい)にて
慈鎮和尚(じちんかしょう)の 門(もん)にいり
出家得度(しゅっけとくど) ましまして
比叡(ひえい)の山(やま)の 二十年(にじゅうねん)

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68~69参照)

大意
親鸞聖人は、9歳で出家され、慈鎮和尚の門に入られました。比叡山で20年間、天台宗の修行に打ち込まれたのです。

前回も紹介しましたが、親鸞聖人は、承安3年(1173年)、京都日野の里に、父君、藤原有範卿、母君、吉光御前のもと、お生まれになりました。
親鸞聖人のご幼名を松若丸と言われました。

親鸞聖人が4歳のとき、父君、有範卿が亡くなり、以後、杖とも柱ともたのみとしておられた母君もまた8歳のときに亡くなられたのです。あわれ、頼りなき孤独の身となられた親鸞聖人は、しみじみと人の世の無常を感じられたのでありました。

時は平安末期、諸国に源氏が兵を挙げ、近くは木曽義仲が大軍を率いて都へ攻め上るなどと、情報が飛び交っていました。
栄耀栄華を誇った平家一門も、平清盛が急逝した後、没落の一途をたどります。
養和元年(1181年)、9歳の春、親鸞聖人は決然と出家得度(しゅっけとくど)の意を固められ、伯父君、範網(のりつな)卿に手をひかれ、東山の青蓮院を訪ねられました。青蓮院は叡山62代の座主、親鸞聖人の遠縁にあたる慈鎮和尚(じちんかしょう)の寺です。

親鸞聖人の姿を拝見した慈鎮和尚は、さてもこの児には非凡の相が備わっているぞと、満面笑みをふくまれて、
「わずか、9歳で出家を志すとは尊いことじゃ。だが、今日は日も暮れかけた。明日、得度の式をあげよう」
と言う。付き添いの範綱卿に、異存のあるはずがありません。

ところが、親鸞聖人すっと立ちあがり、筆と筆を執られ、一首の歌をサラサラと書き付けられました。

明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
夜半に嵐の 吹かぬものかわ

生死無常は娑婆のありさま、有為転変は浮世の習い、今を盛りと咲く花も、夜半の嵐で散ってしまう。人の命は桜の花よりもはかなきもの。明日と言わず、どうか今日、得度の式を挙げて頂きたい、との心を詠まれた親鸞聖人のお歌です。

「そこまで、そなたは無常を感じておられるのか」
慈鎮和尚は、大いに感嘆し、早速、得度の儀式をとり行ったと言います。
かくて、その夜のうちに黒髪を剃り落とし、得度の式を終えたのでした。

親鸞聖人は、麻の法衣に麻の袈裟、お名前も範宴(はんねん)と改められ(親鸞というお名前は、35歳の流罪以後)、比叡山に入り天台宗の僧侶となられたのでした。

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親鸞聖人のご苦労を偲ぶ

Posted on 11th 5月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

おそれおおくも いまここに
見真大師(けんしんだいし)が 真宗(しんしゅう)を
開(ひら)きたまいし 御苦労(ごくろう)を
のべて御恩(ごおん)を よろこばん

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68参照)

大意
まことにおそれおおいことながら、親鸞聖人が浄土真宗を開かれました九十年のご苦労を歌にしたため、ご恩徳を喜ばせて頂きましょう。
※見真大師とは、親鸞聖人のことです。

「『燕雀(えんじゃく)、安(いずく)んぞ大鵬(たいほう)の志を知らんや』『猫は虎の心を知らず』。親鸞さまの大御心(おおみこころ)など分かろうはずのない私が、聖人のご一生をあれこれ歌に表すのは、あまりにも危険の多いこと。しかし、書かずにはおれないのです。恐れの多いことは百も承知の上で、若輩ながらここに記させていただきます」
作者のやむにやまれぬ述懐が冒頭の言葉から伝わってきます。

親鸞聖人がお生まれになられたのは、承安3年(1173年)、平安時代後期に入ってのことでした。
その頃の日本は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)で武力が台頭するようになり、京都の町は焼かれ、混乱を極めていました。
その真っ只中に、親鸞聖人は生を受けられたのです。

親鸞聖人がお生まれになったのは、京都・日野の里。
父君は藤原有範(ふじわらありのり)卿。母君は吉光御前(きっこうごぜん)といわれます。親鸞聖人のご幼名は、松若丸(まつわかまる)といいました。
親鸞聖人が4歳のとき、父君・藤原有範卿が亡くなり、親鸞聖人が8歳になられた時に、母君も亡くなられました。

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