親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人の主著『教行信証』

Posted on 23rd 2月 2015 by はるき in 親鸞の教え

少しずつ日も長くなり、
春が近づいている今日このごろです。

まだ寒い日が続きますが、
親鸞聖人のお歌を通じて
親鸞聖人を学んでいきたいと思います。

今日はここからです。

我(わが)真宗の 組織(くみたて)は
この時ここが まことぞと
教行信証 六巻に
真意を開き 著わさる

親鸞聖人は52歳の時、
「我が浄土真宗の教義の組織(骨格)はこうである、
ここに書いたこれこそまことの教えである」と

『教行信証』6巻にお釈迦さまの真意を
開き著してくだされたのです。

親鸞聖人が何を教えられたか、
それはすべて『教行信証』に書かれています。

親鸞聖人と言えば
『歎異抄』が有名ですが、
『歎異抄』は
『教行信証』に書かれている親鸞聖人の教えをよく理解し、
『教行信証』を物差しとして読まなければ、
とんでもない読み間違いをするところが多いのです。

『教行信証』こそ、万人の救われる唯一の道を
開顕されたお聖教(しょうぎょう:仏教の本)であり、
難度海の人生に沈む、すべての人にとっての
羅針盤なのです。

親鸞聖人が「世界の光」、といわれるゆえんです。

続けて、親鸞聖人のお歌を通して、
お話ししていきたいと思います。

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「なぜ生きる」親鸞聖人のお答え

Posted on 6th 6月 2013 by はるき in 親鸞の教え

6月になり、もう今年も半年が
たとうとしています。

アジサイの花も咲きつつあり、
本格的に梅雨が始まりました。

頑張って乗り切りたいと思います。

早速、
前回の続きをお話しします。

親鸞聖人は日野左衛門に
「なぜ生きる」を明らかになされました。

一夜の宿を邪険に断ったことを悔い、
石を枕に、雪を褥に門前で
休んでおられた親鸞聖人を
自宅に招き入れた日野左衛門でした。

坊主嫌いで宿を断った日野左衛門に、
親鸞聖人は事情を聞かれる。

葬式や法事だけをする坊主は論外で、
どう生きるかを教えるのが坊主の役目だろう、
と日野左衛門は憤慨していたのです。

しかし、親鸞聖人はどう生きるかも大事だが、
「なぜ生きる」はもっと大事ではなかろうか、と
日野左衛門に問われました。

「そう言われればそうだ……。
なぜ生きるかの一大事を、
おれは忘れていたのか……」

とわれに返った日野左衛門。

親鸞聖人はすかさず、それをはっきり教えられたのが、
仏法を説かれたお釈迦さまであることを
話されました。

親鸞聖人の主著『教行信証』冒頭に

「難思の弘誓は難度の海を度する大船、
 無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」

と仰っています。

難思の弘誓とは阿弥陀仏の本願のこと。
阿弥陀仏とはどんな仏さまかと言いますと

蓮如上人は『御文章』で

「ここに弥陀如来と申すは三世十方の諸仏の本師本仏なり」

と言われているように、
大宇宙にまします無数の仏の本師本仏、
先生が阿弥陀如来という仏さまなのです。

お釈迦さまは諸仏の一仏ですから、
お釈迦さまの師匠にあたる仏が阿弥陀仏です。

その阿弥陀仏のなされたお約束が阿弥陀仏の本願なのです。

「難度の海」とは私たちの一生のこと。
苦しみ悩みの波の絶えない海のようなものが人生である、
ということです。

そんな難度海にあって、大きな大きな船がある。ということは
誰でも乗れる、ということです。
70億の人、全人類が乗ってもいっぱいになることはない。
そんな船を阿弥陀仏が作ってくだされたのです。

難度海には丸太や板切れが浮いている。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などがそれです。

丸太や板切れは海に浮かんでいますから、必ず裏切られる時がくる。
難思の弘誓という大船のみが裏切らない、難度の海を
明るく渡してくだされる船なのです。

だから親鸞聖人は一向専念無量寿仏を徹底して教えられました。
これはお釈迦さまのお言葉です。

無量寿仏とは阿弥陀仏のことですから、阿弥陀仏一仏に
向きなさい、阿弥陀仏だけを信じなさい、ということです。

阿弥陀仏だけが私たちを救う力がある、だから
親鸞聖人はこのこと一つ徹底されたのです。

あまりにも一向専念無量寿仏を徹底なされましたから、
当時の人々は親鸞聖人の教えを一向宗とまで言うようになったのです。

しかし、殺生ばかりしている俺なんか、縁なき衆生さ、と
あきらめていた日野左衛門に、さらに親鸞聖人は仰います。

この苦しみの海を乗せて、阿弥陀仏の極楽浄土まで渡してくだされるのは
阿弥陀仏の船だけです。

他の諸仏も助けようと悲願をたてられましたが、
その悲願に漏れたのが私たちなのです。

阿弥陀仏が必ず乗せてくだされる。
だからあきらめなくていいんです。

聞法の場はこの船に乗せていただくための場です。
乗りたかったら仏法を聞きなさい。

あきらめる必要はない。
近くに大船があるから乗りなさい。
この船のあること、どうしたら乗せてもらえるのか、
そのことを聞くのです。

この船に乗せていただくことこそ、
人生の目的であり、なぜ生きるの答えなのです。

順々と親鸞聖人は日野左衛門に話されたのです。

「なぜ生きる」親鸞聖人のお答えに驚いた
日野左衛門は続けて真剣に聞くようになり、
後日、石を枕に休まれた我が家を、枕石寺と名付け、
弥陀の本願を関東に伝えた、二十四輩の一人、
入西房となったのです。

引き続き、浄土真宗親鸞会でお聞きしたことを
お話ししたいと思います。

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仏教の役割、僧侶の仕事

Posted on 28th 3月 2013 by はるき in 未分類, 親鸞の教え

3月も終わろうとしています。
少しずつ春の気配を感ずる今日この頃です。

親鸞聖人と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。

最近の若い人はそのお名前さえ知らない、という人もあると聞きます。
小、中学校の教科書にそのお名前と主著が出ていたのを思い出します。

高校の現代社会という科目のテストでは
「親鸞聖人が教えられた『悪人正機』とはどんな教えか」
という問題がありました。

答えは残念ながら覚えておりませんが、
歴史上の人物として学校で習われた方は多いのでは、と思います。

親鸞聖人が教えられたことと私と何の関係があるのか。
その親鸞聖人の教えを
そのご一生を歌われた「親鸞聖人のお歌」から学んでおります。

今日は前回の続きです。

尊い方の夢のお告げに順い、
猟師であった日野左衛門は自分の家に親鸞聖人と
そのお弟子を招き入れたのでした。

暖をとられながら、親鸞聖人は仰いました。

親鸞聖人
「突然お邪魔をした見ず知らずの者に、
このようなお心遣い、かたじけのうござる。

日野左衛門殿。こんなことを尋ねては失礼だが、
夕べ、『坊主は大嫌いだ』と言われていたようだが……」

日野左衛門
「いや、つまり……、あれはだな。
葬式や法事で、わけの分からんお経を読んだり、
たまに説教すりゃ、地獄だの極楽だのと、
死んでからのことばっかり言って、金を持っていく。
そんな者おれは大嫌いでなあ……。

だってそうじゃねえか。奴らのやってることは、
墓番と葬式だ。死んだ人間の後始末ばかりだ。
どうして生きてる人間に、どう生きるかを教えねえんだ。
それが坊主の役目だろう。

おれたちゃあ毎日どう生きるかで、
朝から晩まで一生懸命なんだ。

その、どう生きるかを少しも教えねえで、
汗水流して稼いだ物を、持っていきやがる……」

ここで、日野左衛門が坊主、僧侶についての
不満を親鸞聖人にぶつけています。

僧侶の仕事、役割とは何でしょうか。

墓番、葬式しかやらず、死んだ人間の後始末ばかりしている
坊主は論外として、
日野左衛門のように「どう生きるか」を
教えるのが僧侶でしょうか。

僧ということについて、
私たちはどういうイメージを持っているでしょうか。

NHKの『クローズアップ現代』という番組で
次のようなアンケートが紹介されていました。

ある講演で取られたアンケートだそうです。

・仏教に対して良いイメージをもっている人は90%
・寺に対して良いイメージを持っている人は25%ぐらい
・僧侶に至っては良いイメージを持っている人は10%ぐらい

というものでした。

仏教に対しては、
現代の多くの人たちが何か尊い、大事なことが
教えられている、と思っているようです。

しかし、
大多数の人が、寺や僧侶に対しては日野左衛門のように
良いイメージを持ってはいないということが分かります。

それに対して、
親鸞聖人が大変尊敬なされている
聖徳太子は『十七条憲法』に次のように仰っています。

「篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり、
すなわち四生の終帰・万国の極宗なり。
何の世・何の人かこの法を貴ばざる。
それ三宝に帰せずしては、何を以てかまがれるを直らせん」
(十七条憲法)

この世に三つの宝がある。
仏宝、法宝、僧宝の三つです。
仏と、仏の説かれた法と、それを正しく伝える僧侶のこと。

親鸞聖人が日本のお釈迦さまだ、と尊敬される
聖徳太子は、僧侶は宝であるから敬いなさい、大切にしなさい、
と教えられているのです。

そんな私たちにとって大切な宝である僧侶に対して、
なぜ、私たちは、良いイメージを持たなくなって
しまったのでしょうか。

引き続き、親鸞会でお聞きしたことを
お話ししたいと思います。

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一人一人が親鸞聖人と同じ“世界の光”に

Posted on 19th 5月 2011 by はるき in 親鸞の教え

親鸞聖人750回忌の今年は
テレビや新聞、ネットや書店でも
いたるところに聖人のお名前を見聞きします。

まさに親鸞聖人ブームです。

親鸞聖人が世界の光と仰がれるのは
なぜか。

多くの人から尊敬されている親鸞聖人の
そのたくましさとはどこから出ているのか。

そのことについて、
親鸞聖人のお歌を通して学んでまいりました。

「往生浄土の先達は
 破戒堕落の僧として
 受けし恥辱も御冥加と
 信心為本とまもり在す」

僧としてはじめて、公然と肉食妻帯を
なされた親鸞聖人を、当時の仏教界、
権力者、世間中が非難しました。

しかし、世間の非難をものともされぬ、この
たくましさは、どこから来るのでしょうか。

「破戒堕落の僧として
 受けし恥辱も御冥加と」と歌われているように、

親鸞聖人(往生浄土の先達)は
あらゆる非難攻撃を、仏さまのご冥加(お陰)と
受けとめておられました。

「如来大悲の恩徳は
 身を粉にしても報ずべし
 師主知識の恩徳も
 骨を砕きても謝すべし」
         (親鸞聖人・恩徳讃)

後生の一大事を解決して、永久の闇から
救ってくだされた阿弥陀仏のご恩と

その阿弥陀仏の本願を親鸞まで伝えてくだされた
善知識方の大恩は、身を粉に、骨を砕いても足りない。

微塵の報謝もならぬ懈怠なわが身に、
寝ても覚めても泣かされる。

知恩・感恩、聖人の熱火の法悦は
何から救われたのか、が明らかにならねば
想像もできないのではないでしょうか。

難病を治してもらった医者に
命を助けられたご恩は大変大きい。

しかし、親鸞聖人のように死んでも
そのご恩に報いずにいられない、
という気持ちにはならないでしょう。

この世、何十年の命が救われた、ということも
大変ですが、それとは比べものにならない
ご恩を知らされられた親鸞聖人。

「まことに、仏恩の深重なるを念じて、
 人倫の哢言を恥じず」
       (親鸞聖人・『教行信証』)

阿弥陀仏から受けし広大無辺なご恩を思えば、
親鸞、世間大衆の非難攻撃などものの数ではない。

「帰命無量寿如来
 南無不可思議光

 ~

 道俗時衆共同心
 唯可信斯高僧説」
        (親鸞聖人・正信偈)

親鸞、弥陀に救われた、親鸞、弥陀に助けられた。
この世で、生きている時に、弥陀に救われた、
ということがあるんだ。

すべての人よ、早く親鸞と共に同じ心になってくれ。
無上の幸せになってもらいたい。
まったく阿弥陀仏のお力であるから、
全ての人が親鸞と同じ心になれるのだ!
全世界を照らす光に、一人一人がなれるんだよ。

この弥陀の救い一つを明らかにせんと、
公然と肉食妻帯をなされた、と拝さずにおれません。

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「袖触れ合うも多生の縁」

Posted on 9th 8月 2010 by はるき in 親鸞の教え

猛暑が続いています。

8月に入ってからの熱中症とみられる死者は、
読売新聞によると、判明しただけで28人(7日時点)に
なったそうです。

皆さん、熱中症への備えをされ、
体調管理にくれぐれも気をつけてください……。

今日も、親鸞聖人のお歌から学びたいと思います。

「力を尽し御房(おんぼう)は
 本願他力を説きたまう

 聖人たちまち直入(じきにゅう)の
 真心決定(しんじんけつじょう)ましませり」

 親鸞聖人は、旧友であった聖覚法印に連れられて、
法然上人の吉水の草庵に向かわれました。

そして、法然上人から真実の仏教を聞かれ、
阿弥陀仏の本願に救い摂られられたのです。

聖人29才の御時のことでした。

 親鸞聖人はその時の喜びを
教行信証の始めにこう叫んでおられます。

「噫(ああ)、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は
 多生にも値(もうあ)い難し」

「噫」とは言葉にならない喜び、驚きを
「ああ」と仰っています。

 電車の中でバッタリと中学生時代の友達と会ったら皆さん、
何て言いますか?

「ああ!」

と言った後に、

「○○君やないか。久しぶり!」

となるのでは、と思います。

ビックリしたら、言葉にならない言葉が先に出ることが
ありますよね。
日常生活の中で想像してみてください。

実は、親鸞聖人の「噫」は、20年ぶりに友達に会うぐらいでは
ないのです。

多生にもあえないことに親鸞、今あえた!という
喜びと驚きの言葉にならぬ言葉、なのです。

「多生」とはどういうことでしょうか。

 私たちは今、人間に生を受けていますが、
人間に生まれるまでに数え切れないほどの生死を
繰り返してきた、と仏教では教えられています。

「袖触れ合うも多生の縁」と言われます。

例えば、電車である人と袖が触れ合うということは、
実は、その人との因縁は人間として生を受けてからだけ
ではない、ということです。

 気の遠くなるような、
遠い遠い過去世からの因縁がなければ、あり得ない
ことなのです。

 考えてみれば地球上に67億の人がいるとして、
一生涯何人の人と袖が触れ合うでしょうか。

 そんなこと考えたことない……、
と思われるかもしれません。

 その時間に、その場所にあなたと、
袖が触れるまである人と近づく、ということは
よほど、その人と深い因縁があったに違いありません。

 その原因の根は私の想像も及ばないほど深い深いもの
である、ということなのです。

 一生、いや、ずーっと会うことも、
知り合いになることもない人がほとんどです。
その中で、その人と袖が触れ合うまで近づくのですから。

 そう思えば、そんな全人類の中から一人の女性と男性が
結婚して夫婦になる、ということは有り難いことなんだなぁと
知らされませんか?

 いやあ、たまたまだよ。何かご縁があったんだよね。
と思われるかもしれませんが、その「何か」がとてつもなく、
深いのです!

 仏法を知れば知るほど、夫は妻を、妻は夫をとても懐かしく、
感じられ、優しい気持ちでお互い接することができるのでは、
と思います……。

 親鸞聖人はこの教行信証のお言葉で
多生の間、求めても求めても値(あ)えないことに
親鸞、今値えた!という喜びを仰っているのです。

つづく

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「あなたはこの魂の解決、どうなさいましたか」

Posted on 16th 7月 2010 by はるき in 親鸞の教え

 いよいよ梅雨入りです。じめじめした天気が続きますが、
続けて、親鸞聖人のお歌を通して学びたいと思います。

「力を尽し御房(おんぼう)は
 本願他力を説きたまう

 聖人たちまち直入(じきにゅう)の
 真心決定(しんじんけつじょう)ましませり」

 20年間修行なされた比叡の山を捨てられ、
一大事の後生に苦しみ悩まれた親鸞聖人は
京の町を夢遊病者のようにさまよい歩いて
おられました。

 その時、京都の四条大橋で、旧友・聖覚法印に
出会われたのです。

聖覚法印
「おや、親鸞殿ではござらぬか」

親鸞聖人
「おお、あなたは、聖覚法印さまでは……」

聖覚法印
「やっぱり親鸞殿であったか。いやー久しぶりですなあ」

親鸞聖人
「あなたが山を下りられたことは聞いてはおりましたが、
 お元気そうでなによりです」

聖覚法印
「ありがとうございます。
 親鸞殿、少々お顔の色がすぐれられないようだが」

親鸞聖人
「はい。聖覚殿。肉体はどこも悪くはありませんが、
 親鸞、心の病気で苦しんでおります。
 聖覚殿、あなたはこの魂の解決、どうなさいましたか」

 ここで、親鸞聖人が苦しんでおられた「心の病気」
とはどんなものか。よく知っていただきたいと思います。

 これは親鸞聖人のみ教えを最も正確に、
多くの方に伝えられた蓮如上人が

「無明業障(むみょうごうしょう)の
 おそろしき病」

と仰っている心の病です。

 この病は親鸞聖人だけではなく、
精神科の医師も含め、全人類がかかっている、
恐ろしい病なのです。

 えーっ、私はそんな病気にかかっているの?
と驚かれるかもしれませんが、続けてお話しします。

 この病のことを「後生暗い心」とも言われます。

「後生」とは死んだ後、ということ。
「暗い」とは蛍光灯などが消えて部屋が暗い、
という暗いではなく、
「分からない」「ハッキリしない」ということです。

 インターネット、ケータイに暗い、とか聞きますよね。
その「暗い」はインターネット、ケータイのことはよく分からない、
という意味で使われているのです。

 ですから、「後生暗い心」とは死んだ後、
どうなるか分からない心、ということ。

 死んだ後は有るのか、無いのか、
 有るとしたらどうなっているのか、
 サッパリ分からない心を
「後生暗い心」と言われるのです。

 死ねば人間はどうなるのでしょう。
死んだら死んだ時さ、と思えるでしょうか。

 老後の心配をしている人もあると思います。
年金はもらえるのだろうか、生活できるのだろうか。
介護してもらうとなると大変だ。

 私を含め、人の行く道ですから、心配したり、悩んだり、
準備したりしている人が多いのでは、と思います。

 いや、もう少し近い将来の心配で
めいっぱい、という人もあると思います。

こういう投稿が新聞にありました。

「新婚夫婦です。生活費のほかに、
 将来の蓄えも必要になると思いますが、
 何から始めればよいのですか」(『読売新聞』)

 この投稿に対して、ファイナンシャルプランナーが
将来のライフプラン(子供、車、マイホー等ム)を考えて、
預金を始めることを勧めます、と回答していました。

 人は誰も、自分の未来どうなるか、心配し、
何か準備しようという気持ちが常にあるのでしょう。
私ももちろんそうです。

 しかし、結婚後の生活、老後のない人はあっても、
死後のない人はないのではないでしょうか。

 今晩死ねば、
誰もが今晩から後生に入っていかねばなりません。

 14日埼玉県で歯治療中の2歳の女の子が、
止血用の脱脂綿を気管に詰まらせ、亡くなっています。

自宅で転んで前歯を損傷したことがきっかけで、
その日のうちに後生へと旅立ってしまうとは……。

 歯科へ連れて行ったその母はとてもその現実を
受け入れられないのではないでしょうか。

「この子はどこへ行ってしまったの?」

心の叫びが聞こえるようです。

 死ねば何もなくなってしまうと心から
思えるでしょうか。

「そんなこと考えたって仕方ないよ。
 死んだら死んだ時さ。

 死ぬことばかり考えていたら
 楽しく生きられないよ」

というムキもあるかも知れません。

 それは真面目な人生観と言えるでしょうか。

 死ねばどうなるか分からない、真っ暗な心に
泣かれた親鸞聖人。私たちも臨終にその真っ暗な心に
泣く時が来るかもしれません。

 その解決が今できるとしたら、どうすれば。

「あなたはこの魂の解決、どうなさいましたか」

 親鸞聖人が聖覚法印に発せられたこの問いは、
私たちの心の底からの問いでもあると思うのです。

「無明業障のおそろしき病」について、
続けてお話ししたいと思います。

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親鸞聖人、夢告から10年。29歳で解けたナゾ

Posted on 27th 5月 2010 by はるき in 親鸞の教え

 一日一日が矢のように過ぎていく今日この頃です。
その矢はいったい、どこに向かって飛んでいるのかなぁと、
忙しいと飛び回っている自分を反省します……。

親鸞聖人のお歌に戻ります。

「六角堂の観音へ 深夜の祈願遂げたまい
 四句の御告(みつげ)と吉水の 法然房を示さるる」

 29歳の時、求道に精も根も尽き果てた親鸞聖人は、
20年間の天台宗の法華経の教えに絶望され、ついに下山を決意されました。

 山を捨てられた親鸞聖人は、後生の一大事の解決一つを求めて、
京都の六角堂の救世観音(ぐぜかんのん)に、百日の祈願をなされたのです。

 六角堂とは、聖徳太子の建立されたもの。

『十年の命』、との聖徳太子の夢告からちょうど10年。

激しい無常と罪悪に責め立てられ、親鸞聖人の求道は決死でありました。

 10年前、聖徳太子の

「そなたの命は、あと、十年なるぞ」

という予告は何を意味していたのでしょうか。

 次のお歌の

「力を尽し御房(おんぼう)は 本願他力を説きたまう
 聖人たちまち直入(じきにゅう)の 真心決定(しんじんけつじょう)ましませり」

のとおり、親鸞聖人は聖徳太子の夢告からちょうど10年後に、
法然上人にお遇いし、真実の仏教、阿弥陀仏の本願を聞かれるようになりました。

そしてその阿弥陀仏の本願によって救い摂られ(真心決定なされ)ました。

親鸞聖人は阿弥陀仏に救い摂られた時に一度死んだ、と仰っています。

それは『愚禿鈔(ぐとくしょう)』という親鸞聖人の著書に、こう書かれています。

「本願を信受(しんじゅ)するは 前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり、
 即得往生(そくとくおうじょう)は後念即生(ごねんそくしょう)なり」(愚禿鈔)

 本願を信受するは、とは阿弥陀仏の本願、お誓いどおりの身に救われて、絶対の幸福になったことを言います。
「前念命終」の前念とは迷いの心のこと。迷いの命が死んだ、と仰っています。

 即得往生とは、即ち往生を得る、ということ。即ちとは「一念」のことです。

「一念とはこれ信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時尅(じこく)の極促(ごくそく)をあらわす」
(教行信証)

と仰っていますように、弥陀に救われる極めて速い時間を「一念」と言います。
何百兆分の一秒よりも速い時間です。
往生を得るとは救われるということ。
後念即生とは、明るい心が生まれるということです。
阿弥陀仏から南無阿弥陀仏を賜るということです。

阿弥陀仏に救われた一念で、後生暗い心が死に、後生明るい心が生まれる。
親鸞聖人はこのように、弥陀に救われた時は「心の、臨終と誕生の同時体験」させられる時である、と言われているのです。

 聖徳太子が夢告で「十年余りで死ぬ」とおっしゃったのは、肉体でなく、迷いの心であった、と親鸞聖人は弥陀に救われてハッキリ知らされられたのです。

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続 未来明るい春に……

Posted on 30th 4月 2010 by はるき in 親鸞の教え

今日で4月も終わりですね。

新社会人は会社に、新入生の皆さんは学校での生活に
少しずつ慣れてきて、理想と現実の違いに戸惑っている人も
あるのではないか、と思います。

4月29日(木)の読売新聞の編集手帳に、

「親類の小学生に将来、何になりたいかを聞いたら、「正社員」と答えた――今年一月、本紙の『気流』欄に載った読者の投稿にそうあった。今の世に欠けているものを一つだけ挙げるとすれば「希望」であろう」(『読売新聞』編集手帳の一部抜粋)

とありました。

先日、親鸞会のテレビ座談会で『なぜ生きる』(高森顕徹先生監修)の本を通して聞かせていただいたことを思い出しました。

 奥底からの満足もなく、ぼんやりした不安とむなしさが蔓延しています。
人生の目的を知らされれば、未来に自信を持って生きることができる。人間に生まれてきて良かった、という奥底から満足できる身に現在生きている時にならせていただける。
奥底からの満足は続き、色あせることはないのです。

『なぜ生きる』の3ページには、

「どこにも名答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない」(『なぜ生きる』)

とあります。

 今の世の中を覆う底知れぬ不安を、未来への自信に変え、たくましく生き抜く力を与えて下される親鸞聖人のみ教えこそ、今の世にかけているもの、と思わずにおれません。

 この連休こそ、世界の光である親鸞聖人のみ教えを学び、有縁の方にお伝えする、そういう勝縁とさせていただきたいと思います。

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親鸞聖人の教えを学び、未来明るい春に……

Posted on 29th 3月 2010 by はるき in 親鸞の教え

 春が近づいているとはいえ、まだ寒い日が続いている
今日この頃です。

先日、テレビで考えさせられる番組がありましたので、
紹介します。

番組の始めから「語り」に問いかけられます。

“ちょっと想像してみてください。

もしもあなたが意識がはっきりしているのに

目を開けることも
話すこともできない
体を動かすことも全くできない

そんな状態がずっと続くとしたら
どうしますか。

「TLS 完全な閉じ込め状態」

究極の生命を生きる人がいます。

 難病が進行し、体をまったく動かすことができず、まぶたも開けることができません。しかし、意識や感覚は残っていて、音を聞くことも、考えることもできます。

 意志を伝えることができない暗闇の世界にひとり生きています”

「NHKスペシャル 命をめぐる対話
 “暗闇の世界”で生きられますか」より

 皆さんは想像できるでしょうか。

 脳梗塞などの脳の病気や事故によって、運動の機能が失われることで起こる「完全な閉じ込め状態」、「閉じ込め症候群」の方々についてのドキュメンタリーでした。

 人工呼吸器や人工栄養摂取などの医療の発達により、こうして生きている患者が増えていることに驚きました。

 そんな病気に自分がなったらどうなるのだろう。

 命とは何か、生きるって何か、そう自分に問わずにおれませんでした。

 真っ暗で話せない。体が動かない。しかし、聞くことはできる、痛みは感ずる。
それは精神的な死を意味するから死なせてほしい、とある患者は訴えます。

 その意志を止められる人はあるでしょうか。家族は涙ながら、その願いを拒むことができないと訴えていました。

 健康で、家族にも恵まれ、仕事も人一倍できた人が突然、「閉じ込め症候群」になったように、今まで当たり前のように生きてきた、そのすべてが崩れ去る時が誰にでもくるのではないでしょうか。

 その時に間違いない、と思っていたすべてが、明かりにならない現実にぶち当たるのではないでしょうか。

 親鸞聖人のみ教えを正確に教えられた、
蓮如上人のお言葉を思い出しました。

「まことに死せんときは予てたのみおきつる妻子も財宝も
わが身には一つも相添うことあるべからず、
されば死出の山路のすえ・三塗の大河をば
唯一人こそ行きなんずれ」

 これは一部の人だけじゃない。私も含め、すべての人の100%確実な未来であるのです。

 その行く先に真っ暗な心を後生暗い心といいます。「完全な閉じ込め状態」になった方の心だけが、暗いのではありません。すべての人が後生が真っ暗な心を抱えているのです。親鸞聖人はその心を「無明の闇」と教えられ、正信偈に

「已能雖破無明闇」(すでによく無明の闇を破すといえども)

と仰有っています。

 生きている今、無明の闇を破っていただくことができるのだ。
人間に生まれてきて良かった、というゴールがあることを
教えていかれたのが親鸞聖人なのです。

 どんなに苦しくとも生きなければならない決勝点を
親鸞聖人ほど、明らかになされた方はありません。

 真に生きる道を開示された親鸞聖人のみ教えを、
真剣に学ばせていただきたい、と強く思いました。

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往生の一路は平生に決す

Posted on 14th 2月 2010 by はるき in 親鸞の教え

 まわりの雪は少しずつとけ始めているようですが、
春の訪れを楽しみに待つ今日この頃です。

 「往生の一路」という詩吟を親鸞会の知人から
聞かせてもらい、その意味を教えてもらいました。

 詩吟も、またその内容も強く心に残り、
深い深い哲理がこめられているような感じがして
もっと意味を知りたい!聞きたい!と思ったんです。

「往生の一路」とは次の歌です。

「往生の一路は平生(へいぜい)に決す
今日(こんにち)何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡(れんげかいり)の楽を快(たの)しむに非ず
娑婆界(しゃばかい)に還来(げんらい)して
群生(ぐんじょう)を化(け)せん」

 親鸞聖人のお歌、ではないですが、
江戸時代(200年ほど前)の法霖(ほうりん)
という浄土真宗の学者が臨終に詠んだものだそうです。

 蓮如上人以来、親鸞聖人の教えに関して
ダントツの学者、とお聞きしました。

 難しい言葉ではありますが、
分らせていただいた意味を少しなりと
お伝えしたいと思います。

「往生の一路」とは
いつ死んでも極楽参り間違いない、
ということ。

「平生に決す」とは
それは平生にハッキリするのだ。

 弥陀の救いは平生の救いであり、
平生、生きている時にハッキリする、
ということです。

 平生業成の教えをここで
言われているのです。

 平生業成とは親鸞聖人の教えのすべてを
漢字四字であらわした一枚看板と言われる
言葉です。

『なぜ生きる』という本には次のように
書かれています。

「平生」とは「現在」のこと。
人生の目的を「業」という字であらわし、
完成の「成」と合わせて「業成」と
いわれる。
「平生業成」とは、まさしく、
人生の目的が現在に完成する、
ということだ。(『なぜ生きる』4ページより)

とあります。

人生の目的とは
苦しくともなぜ生きるのか、ということ。

人は何のために生きるのでしょう。

家族のため、仕事のため、
バンクーバー五輪で金メダルをとるため、
ノーベル賞のため、いろいろ思い浮かぶ人も
あるでしょう。

あなたはそのために生まれてきたのでしょうか。
辛く苦しくとも生きねばならないのでしょうか。

もしあなたが太平洋の真ん中に放り出されたら
どうしますか?

空と海しか見えない大海に一人、投げ出された。

「泳ぐしかない」

それではどこに向かってでしょうか。

体力には限りがあります。一生懸命泳いでも
その先に陸地や船がなければ、溺れて死んでしまう。

一生懸命泳ぐことが良いこととは言えない。
どこへ向かって泳ぐのか。泳ぐ方角が最も大事では
ないでしょうか。

生きることも同じです。
方角を知らず、一生懸命生きても
暗い一生で終わってしまう……。

 親鸞聖人90年の生涯は

生きる目的がある。それは生きている時に完成できる。
だから早く達成せよ、という
「平生業成」の教え以外にありませんでした。

そのことを法霖は
「往生の一路は平生に決す」と
歌われたのでしょう。

 そして平生業成の教えをハッキリ知らされた
法霖は次にこう断言されています。

「今日何ぞ論ぜん 死と生とを」

「今日、私は死ぬ。しかしもう問題ではない。
死んだらどうなるか、ということ、そして
苦しくともなぜ生きるか、ということも」

 何という信念でしょう。
臨終にこのようなことが言えるのは
往生の一路が平生に決した人だけと
思わずにおれません。

 親鸞聖人のみ教えを聞き、
このような身に一日も早くならせていただきたいと
思いました。

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