親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人を恨んだ弁円が、なぜ親鸞聖人のお弟子になったのか

Posted on 17th 4月 2014 by はるき in 親鸞の布教

満開の桜もあっという間に散ろうとしています……。

月日がたつのは本当に早いものですね。

親鸞聖人のお歌を通してお話ししています。

今回はここからです。

「板敷山の弁円は
 如来大悲の恩をしり
 御同朋とさとされて
 今はかしずく語り草」

板敷山の弁円とは、
加持祈祷で多くの信者を集めていた山伏です。

当時、関東で一大勢力を誇っていましたが、
親鸞聖人が真実の仏教である阿弥陀仏の本願を
ひたすら伝えられたことで弁円の信者も弟子も、
次第に親鸞聖人の教えを聞くようになったのです。

それに腹を立てた弁円は
暗殺を計画するも失敗、
やがて親鸞聖人を殺そうと
白昼堂々と稲田の草庵に刀を抜いて
押しかけたのでした。

そんな弁円に対し、
「立場が違えば、私が殺しに来たのだ。
何とか弁円殿に阿弥陀仏の本願を伝えたい」
と、数珠一連を持たれて、懐かしい人でも
迎えるように、弁円の前に出て行かれたのです。

怒り狂っている弁円ではありましたが、
親鸞聖人の慈悲温光なお姿に、
振りかざした刀をおろすことができず、
大地にひれ伏し、懺悔したのです。

弁円は親鸞聖人から、
「ともに阿弥陀仏の本願を聞信させていただく
我らは御同朋・御同行じゃ」と
優しくさとされ、弁円は
親鸞聖人のお弟子になったのです。

阿弥陀如来の大慈悲を知らされ、
明法房と生まれ変わった弁円の物語は、
800年を経た今日もなお、語り草と
なっているのです。

つづく

コメントは受け付けていません。

親鸞聖人が石を枕に雪を褥に仏法を伝えられたご苦労

Posted on 15th 11月 2012 by はるき in 親鸞の布教

11月も中ごろとなり、
もう冬になろうとしています。

親鸞聖人のご命日は11月28日、
親鸞聖人の報恩講が各地でなされています。

親鸞聖人のご一生とはどんな波瀾万丈だったのでしょうか。

そのご一生について「親鸞聖人のお歌」から学んでおります。

今日は前回の続きです。

悲しきかなや 愚禿鸞
きびすを返し 常陸へと
すすまぬ御足 運ばれて
稲田の草庵の 仮住居

恩師・法然上人のご逝去の報を聞かれ、
流刑の地・越後から関東に向かわれたのは
親鸞聖人40歳過ぎのことでした。

そして迷信邪教のはびこる関東で、
常陸国・稲田(現在の茨城県笠間市稲田)に草庵を結ばれ、
新天地での布教を開始されたのです。

門前払いにあわれながらも、次々と戸別訪問していかれる。
畑で働く人々にも近寄って話をされるが、皆、帰っていく。
その中、聞きたいという人が現れる。

親鸞聖人のその歩みは、田畑を耕し、種をまき、苗を植え、
水を注いで育てるが如く、堅実に、ゆっくりしたものでありました。

ある雪の日、聖人は道に迷われ、
ようやく見つけた家で一夜の宿を頼まれたのですが、
仏法嫌いの猟師・日野左衛門に
邪険に断られてしまったのです。

その時、何とか仏縁をと念じて、日野左衛門の家の門で
石を枕に、雪を褥に休まれました。

その時、親鸞聖人は次のように歌われました。

『寒くとも、たもとに入れよ、西の風、
 弥陀の国より、吹くと思えば』

「阿弥陀如来からお受けした、
 大きなご恩を思えばなあ、親鸞。
 ものの数ではない」

なおも降り続く雪。
家の中で寝ている日野左衛門は夢を見る。

(夢の中)
闇に突然、光に包まれた人が現れ、厳かに告げる。

「日野左衛門。今、汝の門前に、尊い方が休んでおられる。
 直ちに参って、教えを受けよ。
 さもなくば、未来永劫、苦患に沈むぞ」

日野左衛門は、がばっと起き上がり、親鸞聖人のことが
心配になる。そして妻のお兼と外に出て様子を見てみると、
門の下に親鸞聖人が雪の布団をかぶったようになっておられた。

急いで家の中に親鸞聖人を招き入れ、暖をとっていただいたのでした。
日野左衛門はあぐらをかき、黙々と囲炉裏の薪を足します。

そこで親鸞聖人は日野左衛門に「なぜ生きるか」を教えられた
真実の仏法を伝えられたのです。

つづく

コメントは受け付けていません。

親鸞聖人のお歌に学ぶ流罪の地での親鸞聖人のご布教

Posted on 26th 1月 2012 by はるき in 親鸞の布教

全国各地を寒波が押し寄せ、
雪での事故が相次いでいるそうです。

余裕をもった行動を心がけて、
車の運転は慎重にしたいと思います。

さて、今年も親鸞聖人のお歌を学んでいきたいと思います。

流罪の身をば 方便と
都に散りし 法の花
厳寒深雪の 越後路に
御法の春をぞ 迎いける

この親鸞聖人のお歌の大意は、

「越後流刑になったのも、かの地の人々に仏法を広めよ、
との阿弥陀仏のご方便」と受け止められ、
都を追放された親鸞聖人は、寒さ厳しく雪深い新潟の地で、
阿弥陀仏の本願を説き続けられました。
すると各地に法の花が咲き、越後は仏法の春を迎えたのです。

新潟県上越市が、親鸞聖人流罪の地でした。
流罪の地に立たれた親鸞聖人のご心中は
いかなるものだったのでしょうか。

御伝鈔に書かれています。

「そもそもまた大師聖人もし流刑に処せられたまわずば、
我また配所に赴かんや。もしわれ配所に赴かずんば、
何によりてか辺鄙の郡類を化せん。是れなお師教の恩致なり」

もし恩師・法然上人が流刑に遭われなかったならば、
親鸞もまた流罪になってこの地に来ることはなかった。

ここに来ることがなければ、どうして越後の皆さんに
阿弥陀仏の本願をお伝えすることができたであろうか。

これこそ、越後の人々に、本願をお伝えせよとの、
阿弥陀如来のご方便であり、法然上人より賜った勝縁である、

と親鸞聖人は喜ばれ、ひたすら布教に突き進まれるのでありました。

しかし、親鸞聖人のお立場は、”罪人”でありました。
越後の村人たちが、すぐに耳を傾けたとは思われません。
ところが、親鸞聖人は雪の中、次のように歌われています。

「この里に 親をなくした 子はなきか
 み法の風に なびく人なし」

“この越後にも、親鸞と同じように、
親と死に別れた人もあるだろうに。

聞き難い真実だなあ。
どうして親鸞は聞けたのか”と

流刑の苦難も、布教のご苦労も、
すべて喜びと転じ変わっておられるのです。

そして、一人また一人、
親鸞聖人のまかれた法の種によって真実求める人が増え、
越後はやがて、仏法の春が到来したのです。

寒さ厳しい日々の中で、
私たちもたゆまず真実の種を蒔き、
一人一人の胸に遇法、聞法の喜びの春を迎えられるよう、
精進したいと思います。

(つづく)

コメントは受け付けていません。