親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人はなぜ、非僧非俗と言われたのか

Posted on 8th 11月 2011 by はるき in 親鸞の御歌解説

11月に入り、紅葉がきれいになってきました。
月日が経つのは、はやいもの。

年賀状発売、年末商戦、せわしくて、
落ち着くヒマもないですね。

親鸞聖人のお歌を、心静かに我が身を
振り返るご縁にしたいと思います。

罪名藤井の善信と
仮名を立てて 聖人は
西仏蓮位を召し連れて
越路を指して 旅立ちぬ

35歳で時の権力者の迫害を受け、
流罪の身となられた親鸞聖人は、
藤井善信と名を変えられ、
西仏房と蓮位房の二人を召し連れて、
雪深い越後へと、旅立ってゆかれたのです。

権力者の無法な弾圧に、馬ふれれば馬を斬り、
人ふれれば人を斬る、
獅子奮迅の親鸞聖人の怒りはすさまじいものでした。

親鸞聖人の主著、
教行信証には激しい権力者批判が記されています。

「主上、臣下、法に背き義に違し忿を成し、怨を結ぶ。
これによりて、真宗興隆の太祖源空法師、
併に門徒数輩、罪科を考えず、猥しく死罪に坐す。
或は僧の儀を改め姓名を賜うて遠流に処す。
予は其の一なり。
爾れば、すでに僧に非ず俗に非ず、
是の故に禿の字を以て姓と為す。」

天皇も臣下もまことの大法に背き、正義に違い、
みだりに無法の忿を起こし、怨を結び、
遂に浄土真宗を興隆して下された法然上人を
始め門下の秀俊な人々に対して
罪科の如何を考えもせず、
ほしいままに死罪を行い、
又は僧侶の資格を剥奪して遠国に流したのだ。
迫害するのは権力の本性とはいいながら、
何という違法であろうか。

愚禿親鸞もその流刑に遭った一人である。
されば、かような擯罰を受けた上は、
もう僧でもなければ俗でもないから
破戒僧の異名といわれる
禿の字をもって自分の姓とした

親鸞聖人はここで、「非僧非俗」と
宣言されています。

非僧非俗、とは僧侶に非ず、
俗人に非ず、ということです。

僧侶に非ず、ということは、
権力によって承認されて葬式や法事を
専門にする僧侶ではない、ということです。

俗人に非ずとは、生活のために
職業をもっている在家の立場でもない、
との意味です。

えっ、親鸞聖人は僧侶でないの?
俗人でもないって、どういうこと?
と思われる方も多いと思います。

先月、朝日新聞の全面広告で
紹介されていた『親鸞聖人の花びら 桜の巻』という本に

「親鸞聖人はなぜ、非僧非俗と言われたのか」との
問いに対する答えが載っていました。
その一部を引用します。

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 全生命を、真実の開顕のみに生涯を托された聖人の歩みには、僧籍もなし、寺院にも住まわれず、葬式、法事、墓番など、おおよそ、僧らしきことは何ひとつなされなかったので、僧に非ずと言われたのです。
「更に親鸞珍らしき法をも弘めず、如来の教法を、われも信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
 聖人の日々は、ただ、弥陀の本願を正確に迅速に、一人でも多くにお届けする、献身的布教と著作活動のみに費やされ、世俗の職業につく暇がなかったので、俗にも非ずと言われたのでありましょう。
 まさに、非僧非俗で一生貫かれたのが親鸞聖人でありました。

――――――――――――――――――――――

親鸞聖人が尊敬されていた聖徳太子の
お言葉を思い出します。

『篤く三宝を敬え。三宝は仏・法・僧なり』
(十七条憲法)

ここで言われる「僧」とは正しい仏法を
伝える本当の僧で、
まさに親鸞聖人のような方を言われるに違いありません。

「非僧非俗」の宣言から伝わる
親鸞聖人のお気持ちに、
私たち親鸞学徒は奮起せずにはいられないのです。

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