親鸞聖人のお歌の心を読み解くサイト

親鸞聖人の見られた磯長の夢告の意味

Posted on 14th 6月 2009 by はるき in 親鸞の生涯

19歳の親鸞聖人が、磯長(しなが)の夢告で最も深刻に受け止められたところは、何と言っても、
「おまえの命は、あと十年余りしかないだろう」
という予告であったことは、想像に難くありません。

「その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入っていくであろう」
の夢告の意味も時の親鸞聖人にとっては、不可解な予告であったに違いありません。

「だからおまえは、今こそ本当の菩薩を心から信じなさい。深く信じなさい」
と言われても、本当の菩薩とはだれなのか、どこにましますのか、親鸞聖人のなぞは深まる一方だったと思われます。

しかし、これらの夢告のなぞが一度に解ける時がやってくるのです。

親鸞聖人は、阿弥陀仏に救われた時に一度死んだ、とおっしゃっておられます。
同時に無碍(むげ)の光明界にとび出させていただいた、ともおっしゃっておられます。

『愚禿鈔』(ぐとくしょう)の、

「本願を信受するは、前念命終(ぜんねんみょうじゅう)なり。即得往生(そくとくおうじょう)は、後念即生(ごねんそくしょう)なり」

とは、この信心決定(しんじんけつじょう)の体験を述べられたものです。

それが親鸞聖人29歳の体験でありましたから、まさに磯長の夢告から10年余りの出来事であったのです。
「10年余りで死ぬ」
と言われたのは、迷いの心のことであったのです。

そして、
「速やかに浄らかなところへ入っていく」
と言われたのは、一念で絶対の幸福に救い摂られるであろうことを、予告なされたものでありました。

しかも、その阿弥陀仏の救いを親鸞聖人に説き切ってくだされた本当の菩薩(真の菩薩)は、法然上人であったことも、同時に明らかに知らされたことでありましょう

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親鸞聖人と磯長の夢告

Posted on 7th 6月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

話が前後しますが、今回は磯長の夢告についてお話したいと思います。

親鸞聖人が19歳の御時でした。
求道に行き詰まられた親鸞聖人は、かねて崇敬なされていた聖徳太子のご廟へ行かれ、生死の一大事の救われる道を尋ねられたことがありました。
この時は13日より15日までの3日間こもられたのですが、その間の模様を親鸞聖人自ら次のように書き残しておられます。

夢に如意輪観音が現れて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告したという、かつて母から聞かされていた話を私は思い出し、観音の垂述である聖徳太子のお導きによって、この魂の解決を求めて太子ゆかりの磯長のご廟へ参詣した。

三日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、ついに失神してしまった。
その第二夜の十四日、四更(午前二時)ごろ、夢のように幻のように自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中は明々と光明に輝いて、驚いた。

その時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉を、次のように記されています。

「我が三尊は塵沙界を化す。日域は大乗相応の地なり。
諦らかに聴け、諦らかに聴け、我が教令を。
汝が命根は、まさに十余歳なるべし。
命終りて速やかに清浄土に入らん。
善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。
時に、建久二年九月十五日、午時初刻、前の夜(14日)の告令を記し終わった。仏弟子 範宴」

範宴(はんねん)とは若き日の親鸞聖人のことです。
この時、親鸞聖人に告げられた太子のお言葉の意味は、

「わが弥陀と観音、勢至の三尊は、この塵のような悪世を救わんと全力を尽くしておられる。
日本国は真実の仏法の栄えるにふさわしい土地である。よく聴け、よく聴け、耳を澄まして私の教えを。
おまえの命は、あと十年余りしかないだろう。
その命が終わる時、おまえは速やかに浄らかなところへ入っていくであろう。
だからおまえは、今こそ本当の菩薩を深く信じなさい。心から信じなさい」

ということでありました。

聖徳太子のご廟は、大阪府石川郡東条磯長(現・太子町)にありますので、これを磯長の夢告といわれています。
このときの親鸞聖人には、夢告が何を意味するのか、まったくわからなかったのですが、これが後に知らされようとは、知る由もない親鸞聖人でありました。

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親鸞聖人出家の動機

Posted on 27th 5月 2009 by はるき in 親鸞の仏門への思い, 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説

親鸞聖人が9歳で、仏門に入られたことを知る人は多いですが、その目的を誤解されている方も少なくないようです。
この親鸞聖人のご出家について、「乱世を生き抜く生活のためであった」と思われている節もありますが、それは大変な誤解です。

確かに、当時、武士が政権を握り、乱世にあって貴族たちはその力を失いつつありました。
平安も中期になると、貴族の次男三男など家を継げない者は、世の中を渡るため、また出世の手段の一つとして位の高い寺院に出家をし、朝廷もまたこれを取り立て、僧としての高い位を与えるということが、一般化していたようです。

そのため、ご両親を亡くされた親鸞聖人が、9歳で出家されたのも、処世のためと思うのも無理からぬことですが、それはまったくの誤解なのです。

幼くしてご両親を亡くされた親鸞聖人は、無常を縁とされ、

「次に死ぬのは自分の番だ。死ねばどうなるのだろうか」

と真っ暗な、わが身の後生に驚かれました。

親鸞聖人が出家に際し、慈鎮和尚に手渡した一首の歌は、親鸞聖人の出家の決意を表わしたものと言えるでしょう。

「明日ありと 思う心の あだ桜
夜半に嵐の
吹かぬものかは」

「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまいます。人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」

一日生きたということは、間違いなく一日死に近づいたということです。
それは、止めることも、後戻りもできません。

時計の針は、残された時を刻み、人は死への階を滑り落ちていきます。
こうしている間にも、一息切れれば、永久に戻らぬ後生です。

後生は、万人の100パーセント確実な未来。
しかし「今、死んだら」と、真剣に問い詰めると、お先真っ暗な気持ちになるのではないでしょうか。

幼き親鸞聖人が驚かれたのは、このことでした。

「人の命は、桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日と言わず、どうか今日、得度していただけないでしょうか」

刻々と迫る無常に驚き、「今、死んだら」と思うと真っ暗になる心の解決一つを求め、仏門に入られた親鸞聖人が、先の歌からも彷彿とします。

親鸞聖人の出家は、この後生暗い心の解決を求めるほかに、目的はありませんでした。
同時にそれは、すべての人が仏法を求める唯一の目的でもあるということを、知っていただきたいと思います。

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親鸞聖人9歳で出家

祖師聖人(そししょうにん)は 九歳(くさい)にて
慈鎮和尚(じちんかしょう)の 門(もん)にいり
出家得度(しゅっけとくど) ましまして
比叡(ひえい)の山(やま)の 二十年(にじゅうねん)

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68~69参照)

大意
親鸞聖人は、9歳で出家され、慈鎮和尚の門に入られました。比叡山で20年間、天台宗の修行に打ち込まれたのです。

前回も紹介しましたが、親鸞聖人は、承安3年(1173年)、京都日野の里に、父君、藤原有範卿、母君、吉光御前のもと、お生まれになりました。
親鸞聖人のご幼名を松若丸と言われました。

親鸞聖人が4歳のとき、父君、有範卿が亡くなり、以後、杖とも柱ともたのみとしておられた母君もまた8歳のときに亡くなられたのです。あわれ、頼りなき孤独の身となられた親鸞聖人は、しみじみと人の世の無常を感じられたのでありました。

時は平安末期、諸国に源氏が兵を挙げ、近くは木曽義仲が大軍を率いて都へ攻め上るなどと、情報が飛び交っていました。
栄耀栄華を誇った平家一門も、平清盛が急逝した後、没落の一途をたどります。
養和元年(1181年)、9歳の春、親鸞聖人は決然と出家得度(しゅっけとくど)の意を固められ、伯父君、範網(のりつな)卿に手をひかれ、東山の青蓮院を訪ねられました。青蓮院は叡山62代の座主、親鸞聖人の遠縁にあたる慈鎮和尚(じちんかしょう)の寺です。

親鸞聖人の姿を拝見した慈鎮和尚は、さてもこの児には非凡の相が備わっているぞと、満面笑みをふくまれて、
「わずか、9歳で出家を志すとは尊いことじゃ。だが、今日は日も暮れかけた。明日、得度の式をあげよう」
と言う。付き添いの範綱卿に、異存のあるはずがありません。

ところが、親鸞聖人すっと立ちあがり、筆と筆を執られ、一首の歌をサラサラと書き付けられました。

明日ありと 思う心の 仇桜(あだざくら)
夜半に嵐の 吹かぬものかわ

生死無常は娑婆のありさま、有為転変は浮世の習い、今を盛りと咲く花も、夜半の嵐で散ってしまう。人の命は桜の花よりもはかなきもの。明日と言わず、どうか今日、得度の式を挙げて頂きたい、との心を詠まれた親鸞聖人のお歌です。

「そこまで、そなたは無常を感じておられるのか」
慈鎮和尚は、大いに感嘆し、早速、得度の儀式をとり行ったと言います。
かくて、その夜のうちに黒髪を剃り落とし、得度の式を終えたのでした。

親鸞聖人は、麻の法衣に麻の袈裟、お名前も範宴(はんねん)と改められ(親鸞というお名前は、35歳の流罪以後)、比叡山に入り天台宗の僧侶となられたのでした。

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親鸞聖人のご苦労を偲ぶ

Posted on 11th 5月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介, 親鸞の御歌解説, 親鸞の生涯

おそれおおくも いまここに
見真大師(けんしんだいし)が 真宗(しんしゅう)を
開(ひら)きたまいし 御苦労(ごくろう)を
のべて御恩(ごおん)を よろこばん

(※浄土真宗親鸞会発行の正信聖典P.68参照)

大意
まことにおそれおおいことながら、親鸞聖人が浄土真宗を開かれました九十年のご苦労を歌にしたため、ご恩徳を喜ばせて頂きましょう。
※見真大師とは、親鸞聖人のことです。

「『燕雀(えんじゃく)、安(いずく)んぞ大鵬(たいほう)の志を知らんや』『猫は虎の心を知らず』。親鸞さまの大御心(おおみこころ)など分かろうはずのない私が、聖人のご一生をあれこれ歌に表すのは、あまりにも危険の多いこと。しかし、書かずにはおれないのです。恐れの多いことは百も承知の上で、若輩ながらここに記させていただきます」
作者のやむにやまれぬ述懐が冒頭の言葉から伝わってきます。

親鸞聖人がお生まれになられたのは、承安3年(1173年)、平安時代後期に入ってのことでした。
その頃の日本は、保元の乱(1156年)、平治の乱(1159年)で武力が台頭するようになり、京都の町は焼かれ、混乱を極めていました。
その真っ只中に、親鸞聖人は生を受けられたのです。

親鸞聖人がお生まれになったのは、京都・日野の里。
父君は藤原有範(ふじわらありのり)卿。母君は吉光御前(きっこうごぜん)といわれます。親鸞聖人のご幼名は、松若丸(まつわかまる)といいました。
親鸞聖人が4歳のとき、父君・藤原有範卿が亡くなり、親鸞聖人が8歳になられた時に、母君も亡くなられました。

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親鸞聖人のお歌

Posted on 24th 4月 2009 by はるき in 親鸞の御歌紹介

今に伝わる親鸞聖人のご一生を歌に表わした作品から、親鸞聖人の生涯を学んでみましょう。

親鸞聖人の御歌

おそれおおくも いまここに
見真大師(けんしんだいし)が 真宗(しんしゅう)を
開(ひら)きたまいし 御苦労(ごくろう)を
のべて御恩(ごおん)を よろこばん

祖師聖人(そししょうにん)は 九歳(くさい)にて
慈鎮和尚(じちんかしょう)の 門(もん)にいり
出家得度(しゅっけとくど) ましまして
比叡(ひえい)の山(やま)の 二十年(にじゅうねん)

大曼行(だいまんぎょう)の 難行(なんぎょう)は
事(こと)なく成(な)され 給(たま)いしも
吾等凡夫(われらぼんぶ)の さとりには
叶(かな)わぬものと 百日(ひゃくにち)の

六角堂(ろっかくどう)の 観音(かんのん)へ
深夜(しんや)の祈願(きがん) 遂(と)げたまい
四句(しく)の御告(みつげ)と 吉水(よしみず)の
法然房(ほうねんぼう)を 示(しめ)さるる

力(ちから)を尽(つく)し 御房(おんぼう)は
本願他力(ほんがんたりき)を 説(と)きたまう
聖人(しょうにん)たちまち 直入(じきにゅう)の
真心決定(しんじんけつじょう) ましませり

三十一(さんじゅういち)の 御歳(おんとし)に
師匠(ししょう)のすすめに 従(したが)われ
兼実公(かねざねこう)の 玉姫(たまひめ)を
請(う)けて在家(ざいけ)の 身(み)とぞなる

往生浄土(おうじょうじょうど)の 先達(せんだつ)は
破戒堕落(はかいだらく)の 僧(そう)として
受(う)けし恥辱(ちじょく)も 御冥加(ごみょうが)と
信心為本(しんじんいほん)と まもり在(ま)す

かの吉水(よしみず)の 一流(いちりゅう)は
時機相応(じきそうおう)の 法(ほう)なれば
そねみのあらし ふきおこり
三十五歳(さんじゅうごさい)の おん時(とき)に

南北僧(なんぼくそう)の 讒奏(ざんそう)に
評議(ひょうぎ)は不利(ふり)に おちいりて
住蓮安楽(じゅうれんあんらく) 両人(りょうにん)は
第一死刑(だいいちしけい)を おこなわる

関白殿(かんぱくどの)の はからいに
遂(つい)に流罪(るざい)と 相定(あいき)まり
両聖人(りょうしょうにん)は あわれにも
西(にし)と東(ひがし)に わかれけり

罪名藤井(ざいめいふじい)の 善信(よしざね)と
仮名(かりな)を立(た)てて 聖人(しょうにん)は
西仏蓮位(さいぶつれんい)を 召(め)し連(つ)れて
越路(こしじ)を指(さ)して 旅立(たびだ)ちぬ

流罪(るざい)の身(み)をば 方便(ほうべん)と
都(みやこ)に散(ち)りし 法(のり)の花(はな)
厳寒深雪(げんかんみゆき)の 越後路(えちごじ)に
御法(みのり)の春(はる)をぞ 迎(むか)いける

建暦二年(けんりゃくにねん) 免(ゆる)されて
配処(はいしょ)の五年(ごねん) 夢(ゆめ)の跡(あと)
名残(なごり)惜(お)しまれ 昨日今日(きのうきょう)
帰洛(きらく)の旅(たび)の 身(み)の軽(かる)さ

無常(むじょう)の風(かぜ)は 惨(いた)ましく
恩師(おんし)の死去(しきょ)は 聖人(しょうにん)の
衣(ころも)の袖(そで)に 便(たよ)り来(き)て
こころを傷(いた)め きずつきぬ

悲(かな)しきかなや 愚禿鸞(ぐとくらん)
きびすを返(かえ)し 常陸(ひだち)へと
すすまぬ御足(みあし) 運(はこ)ばれて
稲田(いなだ)の草庵(くさや)の 仮住居(かりずまい)

板敷山(いたじきやま)の 弁円(べんねん)は
如来大悲(にょらいだいひ)の 恩(おん)をしり
御同朋(おんどうぼう)と さとされて
今(いま)はかしずく 語(かた)り草(ぐさ)

我真宗(わがしんしゅう)の 組織(くみたて)は
この時(とき)ここが まことぞと
教行信証(きょうぎょうしんしょう) 六巻(ろっかん)に
真意(しんい)を開(ひら)き 著(あら)わさる

御同行(おんどうぎょう)は いや増(ま)して
仏(ほとけ)の御心(みこころ) 報(ほう)ぜんと
二十四輩(にじゅうよはい)は 関東(かんとう)の
御法(みのり)の華(はな)と さき副(そ)えり

還暦(かんれき)すぎて なつかしき
京都(きょうと)にかえり 聖人(しょうにん)は
著作(ちょさく)の業(わざ)を はげまれて
こころをくだく 三十年(さんじゅうねん)

弘長二年(こうちょうにねん) 霜月(しもづき)
下旬八日(げじゅんようか)の 午(うま)の刻(こく)
老聖人(ろうしょうにん)は かなしくも
如来(にょらい)の御国(みくに)へ おもむかる

妙花(みょうか)降(くだ)りて 愁(うれい)あり
紫雲(しうん)たなびき 風薫(かぜかお)り
万有(ばんゆう)闇(くら)し 大聖(だいせい)の
別(わか)れぞ惜(お)しむ しるしあり

祖師(そし)は紙衣(かみこ)の 九十年(くじゅうねん)
その徳音(とくいん)は 今日(きょう)までも
実語(じつご)は胸(むね)に 伝(つた)わりて
慈悲(じひ)の御教(みお)え いまぞ知(し)る

厳(きび)しく伝(つた)う 遺訓(ゆいくん)に
宗義(しゅうぎ)ますます 親(した)しまる
報謝(ほうしゃ)のまこと 真影(しんえい)の
みまえに伏して 誓(ちか)うなり

※親鸞聖人の御歌は、浄土真宗親鸞会発行の正信聖典(P.68~)に掲載されています。

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